
流氷にはロマンがある。正直に言えば、気持ちはわからなくもない。
一面を埋め尽くす白い流氷、軋む音、どこまでも続く水平線。あれを目の前にすれば「もっと近づきたい」「できれば乗ってみたい」と思う人が出るのも理解はできる。
実際、2026年2月20日にはオホーツクの海岸で男性2人が流氷に乗って沖合に流されて、救助隊が出動したニュースが報じられた。
目次
流氷は言葉の通り「流れる氷」である

網走の観光船「おーろら」のデッキに展示されていた流氷
流氷という言葉は比喩でも愛称でもない。文字通り、流れる氷だ。止まって見えるのはたまたまで、オホーツク海沿岸の流氷は、元々この海で生まれたものではない。主な発生源はロシア極東のアムール川流域で、川から流れ出た淡水がオホーツク海北部で凍り、北西風と海流に乗って南下してくるのだ。
海氷はオホーツク海の季節現象で、例年なら1月下旬〜2月初旬に沿岸へ到達し、海面を白く覆い尽くす。つまり、流氷は「その場にある自然物」ではなく「遠くから運ばれてきて、常に移動中の物体」だ。それを理解したうえで乗るなら、もはや事故ではなく自発的な漂流である。
流氷は美しいが乗り物ではない
流氷は美しいが、乗り物としては最悪だ。大小さまざまな氷が寄り集まった不安定な集合体で、下はすぐ海だ。エンジンもブレーキもなく、進行方向の選択権すらない。乗った瞬間に自分の運命を風と潮に丸投げすることになる。
毎年のように、網走市のオホーツク海沿岸では観光客が次々と流氷に立ち入る行為が報じられる。流氷が崩れたり、隙間から冷たい氷の海に転落すれば、救助ヘリが到着するまで耐えられず、ほんの数十分で死に至る可能性がある。
「ちょっとだけ」がニュースになるまで
毎年のように聞くのは「少し先まで行っただけ」「写真を撮ろうとしただけ」という同じ言葉だ。
その結果、氷は沖へ流れ、人は取り残される。2026年の例でも救助隊のヘリが出動したが、操縦士も救助隊も、本来は別の緊急事態に備えて待機している。それが「流れている氷に乗った」というだけで動かされる。燃料も時間も人手も、すべて消費される。本人が無事なら「よかったね」で終わるが、その裏で税金は静かに溶けている。
流氷は体験型アトラクションではない
似たような状況は人間以外にも見られる。2024年2月には羅臼沖でシャチの群れが流氷に取り囲まれ、息継ぎのために狭い氷間の穴から頭を出す映像が公開されて話題になった。この事例は人間ではないが、自然界における流氷の危険性を表している。
過去にはオホーツク海の氷上で釣り人や観光客が孤立し、大規模な救助活動が行われた例も報道されている。こうした出来事が毎年のように繰り返されているのが現状だ。
流氷は北海道における自然現象であり観光資源だ。
実際、船上からの流氷観光は大変人気があり、観光客が大勢訪れる冬の一大イベントになっている。だが、それは危険を冒してまで楽しむものではなく、安全を確保した上で楽しむべきものだ。
流氷は流れる。だからこそ、人は流されない判断をしなければならない。









