コネタ

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田舎暮らしを検討中の移住希望者様へ ~都会人は監視社会と惰性イベントの連続に耐えられるか?~

画像はイメージ

俺は田舎と都会にそれぞれ約20年ずつ住んだ経験がある。だからこそ言えることがある。

都会人が田舎に夢を見るのは勝手だが、田舎は都会人が思うほどには甘くはない。空気がきれい? 人があたたかい? 自然が豊か? それは全部、都会人が勝手に作ったイメージだ。実際に住んでみればわかる。田舎は田舎なりの地獄があるのだ。

田舎ではスーパーで買い物するだけで監視対象

田舎のスーパーに行くと、知らないジジイに「どっかで見たことあるな?」と言われる。誰だよ、お前。こっちはただ牛乳と卵を買いに来ただけ。だが田舎ではそれすら“目撃情報”になる。あそこの家の息子が帰ってきてたとか、あの人は最近あのスーパーに来てないとか、クソどうでもいい情報が町内を駆け巡る。

田舎にプライバシーは存在しない。住民票を田舎に移した瞬間から、あなたの行動は町の噂話と化す。

町内イベントは丸々コピペの繰り返し

田舎のイベントは、いつもどれでも内容が毎回同じ。

夏は盆踊り、秋は収穫祭、冬は餅つき。出てくるのは焼きそば、フランクフルト、地元の野菜。出店のメニューも顔ぶれも、毎回全部同じ。誤差レベルの違いしかない。なのに「地域の絆」とか言って強制参加。断れば「最近の若いもんは」と陰口を叩かれる。新しいことをやろうとすれば「前例がない」と潰される。

変化を嫌い、惰性で続くイベントに憤りを感じた若者たちは、次々と町から去っていく。

田舎にはクセの強い人間が多い

田舎にはクセの強い人間が多い。これは偏見ではない。生活の構造がそうさせる。人口が少なく関係が固定され逃げ場がない。結果として個性が凝縮されていく。

町内会の中心人物はなぜか全員仕切りたがりだ。イベントの段取り、ゴミ出しのルール、草刈りの時間まで全部自分の裁量で決めたがる。反論すれば「昔からこうだから」で押し切られる。誰も逆らわないのではなく、逆らうと面倒だから黙っている。

自分の常識が日本の常識だと思っている人が多い。都会から来た人間が「それはちょっと…」と言えば、「じゃあ都会に帰れば?」と返される。

車がないと生活が成立しない

田舎に住んでまず気づくのは、徒歩圏に何もないという事実だ。家の周りにあるのは、自販機と神社のみ。

自販機は缶コーヒーとスポーツドリンク程度しか売っておらず、神社は静かに佇んでいるだけ。食料や日用品は手に入らない。

「ちょっと牛乳を買いに行く」が車なしでは成立しない。最寄りのスーパーまで片道4km。バスは一日3本で、朝の1本を逃せば次は昼過ぎ。タクシーは呼んでも「今は出払ってます」と断られる。

“自然に囲まれて暮らしたい”と思って移住してきたとしても、自販機と神社の間を往復するだけの生活に耐えられるだろうか。

仕事はあっても選択肢はない

田舎にも仕事の求人はある。だが「ある」というだけで、様々な職種から選べるわけではない。ハローワークの求人を見れば、並んでいるのは期間限定の農業補助、介護施設の夜勤、缶詰工場の作業員、建築、土木関係などが中心だ。

都会で積んだキャリアやスキルは、田舎では「よくわからん人」で終わる。IT系? デザイン? マーケティング? そんな職種は田舎には存在しない。地元企業は「地元の人間」を優先し、移住者は履歴書の時点で弾かれる傾向もある。

人があたたかい=距離感が壊れてる

田舎の人は、確かに“親切”だ。だがその親切は、都会の感覚で言えば侵入に近い。初対面で「結婚してるの?」「子どもは?」「どこで働いてるの?」と聞かれるのは日常茶飯事。答えれば噂のネタにされ、答えなければ「冷たい人」と言われる。結果、町内会の草刈りにも呼ばれなくなってしまう。

「人があたたかい」という言葉は、裏を返せば「遠慮がない」「境界がない」「断れない」という意味だ。都会の“適度な距離”が恋しくなる瞬間が、田舎では毎日訪れる。

田舎=GEOもツタヤも本屋もないエンタメ絶滅地帯

田舎にはGEOもツタヤもない。ネット配信が主流になり都会もいずれそうなるだろうが、田舎ではDVDを借りる需要は完全消滅したということになっている。

ゲームも同じ。中古ソフトを探そうにも店がない。家電量販店の品揃えは生活必需品レベルしかなくて、ゲーム関連の売り場は存在しない。「Switchのコントローラーが壊れた」と言っても、すぐに買える場所はない。Amazon頼みになるが配送は遅い。

本屋も消えている。雑誌はコンビニやスーパーにあるが、専門書や文庫は手に入らない。都会なら「ちょっと寄ってみるか」で済む文化的な寄り道が田舎では成立しない。車で片道1時間以上かけて隣町に出かけないと、ちょっとした娯楽さえも手に入らない。

若者はどうしているかというと、スマホとYouTubeで済ませている。だが通信制限がかかれば終わり。田舎では公共施設のWi-Fiに高校生が群がっている光景をよく見かける。

野犬とヒグマが闊歩する自然豊かな風景

田舎の自然は確かに豊かだ。山があり、川があり、空が広い。だがその“豊かさ”は、癒しではなく、日常的な闘いを意味する。

まず虫。どこにでも蚊がいる。家の中、車の中、玄関先、風呂場、寝室。網戸を閉めていても、どこからか入り込んでくる。夏の夜は耳元で「プーン」という音に怯えながら眠る。刺されるのは当たり前、刺されない日はない。夏場は蚊取り線香を焚き続けるのが当たり前。都会の「虫が多いね」は、田舎では「虫が少ないね」の意味である。

次に野犬。俺の田舎では街中に野犬が普通にいた。小学生のころ、通学路で何度も追いかけ回された。野犬との闘いが日常だった。犬が人間を狩る。それが田舎の現実だ。俺は今でも犬は恐怖の対象であり、チワワやプードルでさえも怖い。

そして熊。のんびり散歩でもしようと思っても、裏山ではヒグマが闊歩していた。遠くに黒い影が見えたと思ったらヒグマだった。春と秋は特に危ない。地元では「熊が出るのが当たり前」ではあるが、都会から来た人間にとっては命の危険そのものだろう。

「自然が豊か」という言葉は、観光客目線の言語だ。実際に住めば、虫や獣とのサバイバルである。

地元の若者は出ていき、途上国の外人が移住してくる

田舎では若者は都会に出ていく。主な住民と言えば高齢者と、悪徳ブローカー経由で移住してきた途上国の外人たちだ。

言葉も通じず、文化も違う。だが町は彼らを“人口”としてカウントすることで、人口減少が緩やかになったと報じる。もはや住民の数パーセントがこの手の外人だ。地域の未来を担うはずの地元の若者は消えて、外人がブローカーに連れられて移住してくる。町は「とりあえず住民が増えた」と喜んでいる。

この手の外人は、過疎ってる田舎だろうと日本で単純作業や肉体労働などの仕事に就いた方が、母国で働くより10倍以上も高収入なのだという。そりゃ、地元の人間が出ていく町であっても喜んで移住したくなる気持ちもわからないでもないが、なにか違うような気もする。

田舎の風景の奥にあるものとは

田舎は優しくない。不便で、閉じている。そこにあるのは、夢ではなく現実だ。虫と獣と人間関係と、見えないルールに囲まれた日々が待っている。

「自然が好き」「人があたたかい」「家や土地が安い」と言って来るなら、その裏側にあるものも受け止めなくてはならない。それでも来るなら見えてくるものもある。季節の匂い、静かな夜、遠くの山の影。都会では見過ごされるものが、田舎ではゆっくりと息をしている。

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大人の都合で踊らされる子供たち ~ダンススクール、地域イベント、教育行政…すべては大人の都合~

画像はダンスイベントのイメージ

子供たちが踊っている。いや、踊らされている。それは教育の成果でも芸術の発露でもない。

日本全国、大都市圏はもちろん、人口数万人程度の小都会や田舎街まで、どこの街に行ってもイベントにはキッズダンスが組み込まれている。拍手とスマホの前で、子供たちは“演じること”を求められている。

この現象は教育行政の愚策、ダンススクールのビジネス構造、自治体や地域イベントの集客装置、そして親の承認欲求が絡み合った大人都合の産物だ。

イベントにキッズダンスが“必ずある”という異常

夏祭りやショッピングモールのイベント、自治体の文化フェス。

そこに登場するキッズダンサーたちは、地域の“盛り上げ役”として扱われる。子供が踊れば人が集まる。かわいいから写真や動画映えする。保護者は自動的に観客にもなってくれるから、イベント主催者としては一石二鳥。そんな理由で、子供たちは無償で動員される。

ある街の自治体イベントでは、地元のダンススクールに通う小中学生たちが真夏の炎天下の中、30分以上も踊らされた。イトーヨーカドーが中核施設の某ショッピングモールでは、10月中旬の屋外で冷たい雨が降り仕切る中、ずぶ濡れになりながら子供たちは踊らされた。

保護者はテントの下でスマホを構え、主催者は「地域が一体になった」「集客できた」と満足げだった。だが、子供たちは疲弊し、報酬も休憩もなかった。

これは流行ではない。子供が見せ物として扱われる構造が日本全国で常態化しているということだ。

教育行政が仕掛けた“踊る子供”の量産装置

文部科学省は「表現力の育成」「身体を使ったコミュニケーション能力の向上」といった耳障りの良い言葉を並べて、体育の授業にダンスを組み込んだ。そして、教育現場でダンスが必修になったことで、ダンススクールは正当な習い事として市民権を得た。

「学校でもやってるから」「将来、役に立つから」そんな理由で親は子供をスクールに通わせる。だが、スクールの目的は教育ではない。イベント映えする子供を量産する演出業である。振付は見せるために作られ、レッスンは出演のために組まれる。教育の皮をかぶった商業的な装置にすぎない。

親の怠慢と承認欲求が構造を支えている

「うちの子、ダンス頑張ってるんです」「人前で堂々と踊れて偉い」そんな言葉を並べる親の多くは、自分が何もしていないことへの免罪符として子供を使っている。自分はステージに立たない。地域に貢献しない。

しかし、子供が踊ることで「参加している風」を演出する。SNSにはイベント出演の写真が並び、タグには「#地域貢献」「#頑張ったね」が並ぶ。だが、その実態は親の承認欲求を満たすための演出にすぎない。

子供の“晴れ舞台”を餌にした集金装置

ダンススクールの収益構造は、親の承認欲求を巧みに刺激することで成立している。「うちの子がステージに立つ」「ステージ衣装を着て輝いている」など、その瞬間を見たいがために親はレッスン料を払い、振り付け料を払い、衣装代を払い、出演費を払い続ける。子供が踊ることで、親は“頑張る我が子”を演出できる。そして、スクールはその欲望を商品化する。

イベント前になると、追加レッスン、特別衣装、DVD制作、写真販売といった“オプション”が次々に提示される。「思い出になりますよ」「一生の記念です」と言われれば、財布は自然と開く。

あるスクールではイベント出演にあたり衣装代1万5千円、出演費5千円、DVD代3千円が請求された。それでも親は「いい経験になるから」と納得する。その納得は子供のためではなく、自分の満足のための消費行動にすぎない。

子供は踊っているのではなく踊らされている

キッズダンスは子供が自発的に始めたものではない。多くは親が習わせ、イベントに出させ、SNSで発信する。つまり、子供は踊っているのではなく踊らされている。自分の意思ではない。自分の報酬もない。でも、笑顔で踊っているから問題ないとされる。

すべては大人の都合でできている。教育行政の愚策。演出を売るスクール。集客に利用する商業施設や自治体、町内会などだ。そして、承認欲求を満たす親。その構造の中で、子供は大人の道具にされている。

最近、各地のイベントで必ずあるとも言っていいキッズダンスをみて、そんな風に考えてしまうのであった。

旅モノ

長崎・佐世保への旅で語り切れなかった良かったこと、残念だったこと

17年ぶりの長崎旅行。いくつか記事を書いたが、語り残したものは多い。グルメの失望も、ハウステンボスの広すぎる駐車場についても書いたはずなのに、どこか抜けている。

旅行中に書いた「気づきメモ」を元に、書ききれなかった良かったことと、残念だったことを記録として記述したい。

佐世保の街並みと空気

佐世保駅周辺の市街地は、観光地という面もあれば生活の延長線上にある街という印象が強かっただった。日本一の長さというアーケード街は広くて歩きやすいが、全体的に落ち着いた雰囲気。百円ショップが多く、観光地というより生活に根差している雰囲気が感じられた。

もっとも、札幌市のアーケード街「狸小路」にしても、コロナ禍で外国人が来れなかった時期はガラガラだったし、那覇のアーケード街や国際通りも外国人が来れない時期においては、人っ子ひとりいないくらいにガラガラだったので、外国人観光客が思いのほか少なかったというのもあるだろう。

有名飲食店は極端な観光地価格

全国各地の様々な観光地とされる街に行ったが、佐世保の名物を提供する店は観光地価格が著しいように感じた。

名物のレモンステーキは2~3千円くらい、佐世保バーガーも1~2千円くらい。観光地メニューと言えど、需要と供給の釣り合ったところで価格が決まるとは思うが、強気な価格設定のわりには店舗が賑わっている様子は感じられなかった。

北海道の観光地だと、強気な観光地価格の店にも観光バスが乗り付けて大量に客が供給されたりするけれど、街中の店でそういった光景を見ることはなかった。

トルコライスはどこにでもあるわけじゃない

今回の長崎の旅で特に食べたいと思っていたのはトルコライス。

長崎県内ならどこでもあるかと言えばそうではなく、佐世保の中心市街地では、むしろ数店程度しか提供している店はなかった。Googleマップあるあるだが、情報が間違っていたり、目当ての店に行ってみると実は定休日だったりして、有りつくのに苦労した。

2日や3日程度の滞在だったら、長崎に着いた瞬間からトルコライスの店を探した方がいいレベル。空港にも食べられる店はあったけど、着いて早々に空港で食べるのも嫌だからスルーしたら、散々な目にあったという笑い話。

長崎の交通とアクセスの印象

長崎から他県へ移動する際、特に熊本や鹿児島方面へは列車や高速バスでは福岡を経由する必要があり、地理的な不便さを感じた。西九州新幹線の部分開通によって一部は改善されているが、九州全体を巡る旅を考えるとアクセスが厄介に思える部分もある。

長崎から鉄道とフェリーを使って熊本に渡るルートもあるが、仮にそれを使ったとしても時間と料金がかさむ。

2大都市の長崎市と佐世保市の移動も快速列車で2時間ほどかかり、ひょいっと気楽に移動というわけにはいかない。

米軍基地の街とイメージして行くと微妙

日本にある米軍の海軍基地としては横須賀に次ぐ規模だと聞いたが、一般観光客がふらっと目にする範囲だと、沖縄で街のど真ん中に滑走路があるのを見慣れていたからか、思っていたほどの米基地っぽさは感じられなかった。

海軍基地という性質上、海沿いのエリアに施設が集中していて、当然ながら一般人が立ち入ることはできないというのもあるだろう。

長崎市や佐世保市のホテル価格は高め

クチコミが5段階で2くらいの評判の悪い難ありなビジネスホテルですら、1泊5千円くらいが相場。少し頑張ってクチコミが3~4くらいの星になる「普通」のビジネスホテルだと6~7千円くらい。

長崎市だと1か月くらい前なら安いホテルを選べるけれど、直前になると8千円くらい出さないと泊まれるホテルが見つからないかもしれない様子だった。

長崎市も佐世保市も大村市も、宿泊者は出張のビジネス客が多い印象で、そうなるとポケットマネーで泊まる一般観光客を奪い合う必要もないから、無理に安くしなくてもいいという理屈で高いように思った。

その構造は飲食店などにも言えて、長崎名物を提供する店でも実際は地元客が客層の中心だったりと、観光客に必ずしも優しい所ではないという印象も持った。