コネタ

WEB制作

派遣社員のWebディレクターは存在自体が矛盾している 〜雰囲気ディレクターという生き物について〜

Web制作やECサイト運用の現場には「派遣のWebディレクター」という肩書きの人間が普通に存在している。

しかし、この役割は構造的に矛盾しており、本人の能力以前に構造的に絶対成立しないようになっている。その結果、誕生してしまうのが「雰囲気だけディレクター」という生き物だ。

彼らはディレクションの本質を理解しておらず、理解する気もなく、ただ「ディレクターっぽい雰囲気」だけをまとって必死に現場に立っている。

権限ゼロなのに「判断しているフリ」だけは一人前

ディレクターとは本来、要件を整理し、優先順位を決め、最終判断を下す役割だ。

しかし、派遣ディレクターには決裁権もなければ、社内政治にアクセスするルートもない。正社員の意向を覆すこともできず、派遣切りを常に恐れ、責任範囲も曖昧だ。それでも現場は「ディレクターなんだから判断して」と言う。

判断しているフリだけは器用にこなす

たとえば、仕様の確認を求められたとき、彼は目を泳がせながら「うーん、まあ、そんな感じでいいんじゃないですかね」と言う。

何が「そんな感じ」なのかは誰にも分からない。本人でさえわからないのだから。

そして別の日には、明らかに理解していない資料を前に「これは・・・たぶん前回と同じ方向性で」と濁す。前回の方向性すら理解していないのに、語尾だけ強くして「判断している雰囲気」を作り出す。判断の中身は空っぽだが、雰囲気だけは一人前である。

責任を負えないのに「責任者の顔」をする滑稽さ

派遣ディレクターは成果物の品質やスケジュールについて責任を問われる。しかし、実際には承認フローにも入れず、仕様変更の決定権もない。トラブルが起きても最終判断は正社員が握っている。それでも現場は「ディレクターなんだから案件に責任を持って」と言う。

そして派遣ディレクターは責任が発生しそうな場面になると急に黙る。

ある日の会議で、クライアントから「この修正、誰の判断ですか?」と問われた瞬間、彼は椅子を引きながら「ちょっと資料探しますね」と言って席を外した。資料など探していない。単に逃げただけだ。

別の日には、チャットで「この対応どうしますか?」と聞かれ、「確認します」とだけ返して2時間以上音沙汰がなかった。確認などしていないのだ。責任を負わないための逃げ足だけは異常に速い。

文脈を理解していないのに「指示役」をやりたがる

派遣ディレクターは、現場の文脈を理解する前に指示役を求められる。しかし、文脈を理解する努力すらしない。

会議で聞いておらず、資料の説明にもついていけず、仕様も理解していない。それでも「ディレクター感」を出したいという欲求だけは強いため、内容が空っぽの指示が量産される。

ある日、デザイナーに向かって「このバナー、もっといい感じにできます?」と言った。デザイナーが「具体的にどの部分でしょう?」と聞くと、「いや、全体的に」と返す。

別の日には「クライアントがもっと華やかにって言ってました」と言うので、どの要素をどう華やかにするのか聞くと、「そこは、まあデザイナーさんのセンスで」と逃げた。これでは伝言担当でしかない。

情報がないのに「知った風な口」を利く

派遣ディレクターは情報が後回しで届き、会議に呼ばれず、ツールの権限も制限され、正社員同士の非公式な会話にもアクセスできない。結果として、正社員の方が判断の質もスピードも高くなる。しかし、情報がないのに情報があるフリをするのは日常茶飯事。

ある日、仕様の意図を聞かれた彼は「これはたぶん、クライアントの意図としては」と語り始めたが、途中で詰まり「いや、前に聞いた気がするんですけどね」と濁した。実際には何も聞いていない。

別の日には「この要件、クライアントはこう言ってました」と断言したが、後で正社員が確認すると全く違う内容だった。知らないなら黙ればいいのに、黙ると無能がバレると思っているため、余計に喋る。喋れば喋るほど浅さが露呈するのに、それに気づかないのがまた厄介だ。

実務が分からないのに人によって態度を変える

実務が分からないことを自覚しているからこそ、相手によって態度を変える人がいる。おとなしい人にだけ頼り、断れない人にだけ甘え、強い人には絶対に近寄らない。

イラストを描くわけでもないのになぜかペンタブを使う彼女は、大人しい性格のエンジニアに向かって「これ、ちょっと質問していいですか?」と猫なで声で話しかけ、基本的なPC設定を教えて貰っていた。

別の日には、ホストのような顔立ちの優しい人に近寄り、「すみません、教えてくれますか」と小声で依頼し、実務を回しているような現場の強い人には絶対に頼まない。浅い人間ほど。相手を選んで依存することは、心理学的にも明らかなことである。

動画変換まで頼まれるSEOディレクターという雑用係

ある日、SEOディレクターに「この動画、MP4に変換できますか?」と依頼が飛んだ。

SEOディレクターは本来、検索意図の分析やコンテンツ戦略の立案を行う高度な専門職だ。しかし、実際の現場では、なぜか社内だけで使う動画変換まで頼まれる。SEOと社内向け動画の変換には何の関連性もないが、現場では「パソコンに詳しそう」という理由だけで雑務が押し付けられる。

彼は「まあ、やってみます」と答え、SEO担当のPCには動画編集ソフトなんて入っていないから、フリーソフトを探すところから始めていた。もう完全に便利屋扱いである。

構造が壊れている現場には壊れた役割が集まる

派遣ディレクターが機能しないのは、本人の能力が低いからではない。役割と立場が矛盾しているからだ。

そして、その矛盾の上に乗っている「雰囲気だけディレクター」や、「無駄にペンタブを使ってデザイナーのコスプレをする人」や、「SEO担当なのに動画変換をする人」は、構造の破綻を明確に浮き彫りにさせている。

判断できないのに判断するフリをし、責任を負えないのに責任者の顔をし、情報がないのに知った風な口を利き、実務を理解していないのに偉そうにする。こうした人々が集まる現場では、誰がやっても破綻するし、破綻のスピードは倍速になる。

そして、こんなWeb制作やECサイト運用の現場は、決して珍しくはないというのが実情だ。

WEB制作

驚くべき事実、今どき「デザイナー=Mac」という昭和価値観の会社が実在していた!!

画像はイメージ

まだ生きていた「デザイナーはMac」という神話(笑)を今回はお届けしよう。

Web制作の現場では、ときどき驚くような企業に遭遇することがある。今回出会ったのは「デザイナーはMacを使うもの」という価値観を、いまだに当然の前提としている会社だった。

本気でデザイナー=Macだと思ってる(笑)

しかも、それが冗談やネタの類ではなく、業務環境として本気で固定されている。

正直なところ、2020年代のWeb制作でこの発想が残っているとは思わなかった。1990年代のDTP全盛期ならまだ理解できる。かつてはフォント環境やアプリケーションの事情から、デザイン業務はMacという時代が確かに存在していた。

しかし、それは印刷の時代の話であり、現在のWeb制作とは前提がまったく違う。にもかかわらず「デザイナー=Mac」という公式がそのまま残っている会社が、いまだに存在しているという事実には驚いた。

WebデザインにMacの利点は特にない(笑)

結論から言うと、Webデザインという業務に限れば、Macを使う必然性はほぼない。

むしろ、検証という観点では不利になる場面が多い。Webサイトはユーザー環境で正しく動作することが最優先であり、そのユーザー環境の大半はPCにおいてはWindowsがほぼ全てだからだ。MacでWebを閲覧しているのはほんの少数に過ぎないのが事実。

webの検証作業ではブラウザの表示差異、フォントレンダリング、文字幅、フォームの挙動など、確認すべきポイントは多い。だが、実際のユーザー環境に近い形で確認できるのはWindowsだ。Macでも仮想環境などを使えば検証は可能だが、余計な手間が増えるだけで、とてもじゃないが合理的とは言いがたい。

Web制作は表示確認の作業が非常に多いので、検証がやりづらいMac環境をあえて選ぶ意味はゼロに近い。

Macは文字コードや改行コードのトラブルが多い

もう一つ、実務で困るのが文字コードや改行コードの違いだ。現在はかなり改善されているとはいえ、MacとWindowsの混在環境ではファイルの扱いでトラブルが起きることがある。

特に独自開発のCMS、古いツールや社内システムを使っている場合、文字コードの扱いが厳密で、思わぬ場所で文字化けが起きることもある。Web制作ではHTML、CSS、JavaScript、テンプレート、CSVなど、テキストベースのファイルを大量に扱う。そうした環境では、余計な文字コード問題を抱えないほうが運用は単純になる。

Macで作業したことが原因でサイトが壊れた現場を見たことは数知れない。

それでも残る「Mac信仰」の不思議

YouTubeやUdemyなどでデザイン系の動画講座をみればわかるが、多くのベテランデザイナーが今どきは普通にWindowsでデザインしているのが現実。

それなのに、なぜ「デザイナーはMac」という誤った信仰が未だに残っているのか。

理由は単純で、過去の成功体験がそのまま文化として残っているからだろう。DTP全盛時代、デザイン会社の机には必ずMacが並んでいた。その光景が長く業界の象徴だったため、デザイン業務=Macというイメージが固定された。

しかし、現在のWeb制作は、ブラウザ、フロントエンド、クラウド、Gitといった技術が中心で、かつてのDTPとはまったく別の分野になっている。それでもデザイナーのイメージだけは昔のままという呆れる会社は大企業でも意外と存在する。

道具ではなく検証環境が重要

Web制作で重要なのは、誤ったイメージや信仰、古い価値観でMacを選ばないことである。

にもかかわらず「デザイナーはMac」という化石のような発想だけが残っている会社を見ると、世界の時間がどこかで止まっているように感じてしまう。

Web制作は常にユーザー環境を前提に作るのが鉄則だ。もし、今でも「デザイナー=Mac」という前提で環境を決めている会社があるなら、それは技術的的理解がないのはもちろん、昔の価値観から抜け出せていない証拠だと言えるだろう。

コネタ

靴底が柔らかいスニーカーは歩くのにも自転車用にも不向きのゴミである理由

画像はスニーカーのイメージ

先日、某ディスカウントストアで、安物の割には見た目も履き心地も悪くないスニーカーを買った。買った瞬間だけは得した気分だった。

だが、実際にウォーキングで使ってみると、靴底に違和感を覚えたり、スニーカーなのにゾウリやサンダルを履いているような、妙な気持ち悪さがあった。

そして、たった2ヶ月で靴底は割れ、安物買いの銭失いを実感したのだった。

「柔らかい=履き心地がいい」という誤解

ディスカウントストアに並ぶような無名メーカーの安物スニーカーは、「柔らかい=履き心地がいい=買って貰える」という販売戦略になっていることがある。

靴底が柔らかいスニーカーは、店頭で試し履きした瞬間の印象だけは良い。数歩歩くだけで、クッションが効いているように感じる。しかし、この感覚は静止状態や短時間評価に最適化された錯覚であり、連続動作としての歩行や自転車での使用適性とは関係ない。

歩行や自転車での使用は、柔らかさはメリットではなくデメリットになることが多い。靴底がどう力を受け、どう流し、どこで支えるか。その設計思想の差は、メーカーの技術力や値段の差として靴底にそのまま表れる。

歩行性能を殺すのは構造の欠如

歩行では着地で受けた力を潰さずに、次の蹴り出しへとスムーズに繋げる必要がある。

靴底が柔らかすぎるとエネルギーは吸収され、反発は前進力に変換されない。横方向の剛性も不足しやすく、接地が不安定になり、足に無駄な補正が増える。歩けはするが、効率が悪く、確実に疲れる靴になる。

自転車で靴底が割れるのは偶然ではない

自転車のペダルは接触面が小さく、踏力が一点に集中する。

柔らかい靴底は局所荷重を分散できず、同じ位置で繰り返し潰される。中足部に芯材や剛性設計がない場合、曲げ疲労が蓄積し、発泡材が内部から裂け、割れや剥離が起きる。これは使い方の問題ではなく、用途を想定していない設計の必然だ。

安物メーカーの靴底設計の実態

ディスカウントストア向け無名メーカーの多くは、OEM工場の既存金型と既存素材の流用が前提になる。

設計要件は「柔らかい」「軽い」「安い」が基本。生体力学や構造設計は評価軸に入らず、長期歩行や繰り返し荷重の検証も行われない。専門家が不在、あるいは関与しても決定権がないため、柔らかい単層素材だけが残る。

一流メーカーが靴底をどう設計しているか

一方、名前が知られた一流メーカーではどうか。

一流メーカーでは、靴底設計は感覚論ではなく工学の仕事になる。歩行や走行の動作解析、生体力学に基づく荷重分布の設計、材料工学による反発・耐久の制御、構造設計による曲がる位置と曲げない位置の明確化が前提となる。

柔らかさは単独で存在せず、必ず中足部の剛性やシャンク、プレートとセットで管理される。そのため、柔らかくても歩け、壊れにくい。値段が高いのはブランド料だけではなく、設計と検証のコストである。

歩きにも自転車にも中途半端になる理由

柔らかい靴底のスニーカーは、短時間の軽い用途では問題が表面化しにくい。

しかし、日常的な歩行や自転車での使用は、歩行効率の悪さと耐久不足が短期間で露出する。

結論、靴底が柔らかいスニーカーは、歩行にも自転車にも向かない。安物メーカーと一流メーカーの差は素材だけではない。専門性、検証、構造。その有無が歩ける靴と壊れる靴を分けている。靴底は触感ではなく、力の流れで選ぶべきだ。