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コネタ

イオンのレジゴーと耳障りな店頭BGMが倍増させる買い物ストレスの正体

画像はイメージ

食料品の買い物は本来、もっと静かで、生活に根差した心穏やかな行為であったはずだ。

しかし最近、イオンに行くたびに「レジゴー」というセルフ会計端末の耳障りな場違いBGMに妙な嫌悪感を覚える。

その理由を分解すると、レジゴーそのもの構造的な欠点と、店頭BGMの過剰さが相乗効果を生んでいることが見えてくる。

レジゴーそのものの構造的な問題点

レジゴー利用者の声をネットで検索すると、以下のような問題点が多数上がっている。

スキャン漏れが起きやすい

利用者が自分でスキャンするため「読み取ったつもり」が頻発する。バーコードの反射や角度の問題で読み取りに失敗しやすく、ミスか故意か判別しづらい。

逆に多重スキャンが発生する

子供連れの客が子供にレジゴーを任せていた場合に誤操作したり、子供が興味本位で操作して同じ商品を複数スキャンしてしまった結果、実際以上の金額をイオンに“お布施”するケースが起きている。

意図しない万引きリスクが上がる

売り場のどこでもスキャンができるレジゴーは、その特性により万引きと判断されるリスクが高まる。従来のセルフレジとは違って、カメラや店員の目が確実に届く環境よりもチェック機能が弱いため、誤操作なのか万引きなのかの線引きが曖昧になる。

レジゴーは通路を塞ぎやすい

商品棚の前でスキャンするため動線が悪くなり、他の客のストレス源になる。

スキャン音が大きくて不快

レジゴー専用端末の「ピッ」という音が妙に大きい。レジゴー利用者が多い店舗の場合は「パチンコ屋か?」と思うほど店内にピコピコ音が響き続ける。

大量買いにも少量買いにも向かない

商品点数が多いと従来レジのほうが早いという逆転現象が起きる。少量の買物でも、わざわざレジゴーなんかを使うより従来レジの方が早い。

バーコードがない商品の扱いが煩雑

野菜などバーコードのない商品は端末の画面から探す必要があり、操作に慣れていない人には負担が大きい。

多数のレジゴー端末が抱える環境負荷、電子ゴミ(E-waste)

イオンが掲げるSDGsはどこへ行ったのか。

レジゴーは「効率化」「レジ待ちゼロ」といった前向きな言葉で語られるが、その裏側には見過ごされがちな環境負荷が存在する。まず、専用端末の製造にはプラスチック筐体、液晶、基板、バッテリーといった複数の素材が必要で、製造段階で相応の資源とエネルギーを消費する。店舗ごとに数十〜百台以上が常備され、故障やモデル更新のたびに廃棄が発生する構造は、電子ゴミ(E-waste)を確実に増やす仕組みだ。

さらに、端末は常時充電されている状態で、充電スタンドの電力消費も積み上がる。レジゴー端末の液晶画面は付きっぱなしのため、バッテリー劣化が早まるのは必至だ。

イオンは至るところで「SDGs」「環境配慮」「持続可能な社会」を掲げてきた。レジ袋削減、食品ロス対策、リサイクル推進など、環境意識の高さをアピールしてきた。しかし、レジゴー端末という、環境負荷の高い電子ゴミの源泉を大量導入し、廃棄する仕組みを作った時点で、そのSDGs理念はどこへ行ってしまったのだろうか。

そして最大のストレス源は店頭BGMの場違い感

イオンの店内は、商品紹介の音声、キャンペーン告知、店内BGM、レジゴー端末のスキャン音、周囲の会話が同時に鳴り続ける音密度の高い空間だ。

特にBGMの音量が強めに設定されていることが多く、テンポが速い、音数が多い、ループが短い、音量が大きいといった条件が重なると、知らず知らずのうちに脳が疲労する。つまり、レジゴーの音楽は脳にウザいのである。

さらに、そこにレジゴーの高域スキャン音が重なることで、音のストレスが倍増する構造になっている。

レジゴーの音楽が脳にウザい構造的理由

レジゴーの店頭音楽は、速めのテンポで明るくキャッチーなメロディー。耳に残りやすく、口ずさみやすいという、典型的な「商業ポップ」としての音楽構造を持っている。

しかし、実はこの構造は、買い物という行為と相性が悪い。

テンポ(BPM)が速すぎる

買い物に適したテンポは、ゆっくり歩くのと同じBPM70〜90くらいだとされるが、レジゴーの音楽はそれよりも速く、歩行速度と合わず、落ち着かない状態を作る。

周波数帯が耳に刺さる

2kHz〜5kHzくらいの帯域が強く、買い物中の音楽としては耳障り。この帯域は赤ちゃんの泣き声や警告音、アラームなどと同じで、人間の耳が最も敏感に反応するゾーン。聞きたくなくても脳が「注意を向けろ」と反応してしまうために、嫌でも耳に入ってきて疲れやすい。

ループが短く脳が飽和する

店頭ではサビ(?)部分を短くループしていることがあるが、これは脳にとっては「無視できない音なのにすぐ飽きる」という最悪の状態になる。これがイオンにいるだけで気づいたら疲れているという現象の正体。買い物中にレジゴーの音楽が鳴り続けると、無意識に疲れるのは当然。

レジゴー音楽は商業ポップの構造で買い物音楽ではない

レジゴーの音楽は、明るい、楽しい、そして子どもにウケる。メロディーもキャッチーで、誰の耳にも残るという、商業ポップ音楽としては、まさに優秀すぎるほど優秀である。

つまり、音楽単体としては評価すべき点は多い。だが問題は、それを買い物中に延々と流すBGMとして採用したイオン側のセンスだ。

高音、速いテンポ、短いループという性質を理解せず、店内の音環境にそのまま放り込めば、利用者の疲労が増すのは当然だ。優秀な音楽を、最も不向きな場所で使ってしまう。そのミスマッチこそが、この買い物ストレスの根本原因である。

それでも多大な投資を回収したいから流し続ける

レジゴーの店頭BGMは、多くの利用者が「うるさい」「落ち着かない」と感じているはずにもかかわらず、イオンは頑なに流し続けている。なぜか。単純に「買い物を楽しくしたい」という善意だけでは説明がつかない。むしろ、すでに投入したコストを回収するために止められないという構造のほうが現実的だ。

レジゴーの導入には、専用端末の製造、システム開発、アプリ運用、店内インフラ整備、有人レジ係のリストラ工作など、多額の投資が行われている。さらに、店頭BGMの制作も外部クリエイターへの発注であり、それらの投資総額は決して安いものではないだろう。こうしたsunk cost(埋没コスト)によって、失敗作だとしもイオンからすれば「せっかく作ったのだから使い続けなければ損だ」という心理に陥りやすい。

その結果、本来なら利用者の反応を見て調整すべき音量や選曲も、「投資したから流す」「作ったからには使う」という発想で固定化される。利用者の疲労や不快感よりも、投資回収の論理が優先されるわけだ。買い物体験を損なうBGMを流し続けることは、長期的にはブランド価値を下げ、客離れを招くリスクすらあるが、短期的な投資回収を優先した結果、長期的な顧客満足を犠牲にしているのだとすれば、それは企業として本末転倒だ。

レジゴーのストレスはイオンのミスマッチ設計

レジゴーの仕組みも、店頭BGMも、音楽そのものも決して悪くない。むしろ、技術も楽曲も単体としてはよくできている。しかし、それらをどう組み合わせ、どんな環境で使うかという設計思想が欠けていれば、優れた要素も簡単にストレス源へと変わってしまう。

今のイオンはまさにその状態だ。高音で速いテンポの音楽を騒がしい店内に重ね、さらに専用端末を大量に導入して環境負荷まで増やしている。SDGsを掲げながら、電子ゴミを増やす仕組みを平然と拡大している矛盾も放置されたまま。便利さを語りながら、実際には利用者の気力を削り、買い物体験を悪化させているというのが実情だ。

コネタ

イオンという巨大資本に滅ぼされた地域の店と街の未来

またひとつ、地域に根ざしたショッピングセンターがイオンに滅ぼされた。地域の店が巨大な資本力に排除されたのだ。

長年地元の人々に愛され、安くて良い商品を揃え、生活の一部として機能してきた店だ。しかし、真正面にイオンが建った瞬間、その店の未来は決まってしまった。これは競争ではない。巨大資本が弱者を押し潰す構図であり、「時代の流れ」という一言で片付けることは、現実から目を逸らす言い訳にすぎない。

地域に愛された店が消えてしまった理由

埼玉県のスーパーバリュー上尾愛宕店は、地域の生活を支えてきたショッピングセンターだった。生鮮食品の安さ、地元密着の品揃え、日常の買い物にちょうど良い規模感。ネット上でも閉店を惜しむ声が多く、「ショックだ」「本当に困る」という反応が相次いだ。

この店が閉店に追い込まれたのは、道路を挟んで真向かいにイオンモール上尾が開業したためと言わざるを得ない。巨大資本の圧倒的な集客力と規模の差は、地域の店がどれほど努力しても覆しにくい。

この店以外にも上尾市ではイオンモール開業後、街の商業施設が次々と業態変更や閉店に追い込まれている状況が報じられている。

地域の店は“弱かった”のではない

今回閉店したショッピングセンターは、安くて魅力的な商品を揃え、地域の人々に支持されていた。

それでも消えてしまった理由は単純で、イオンが真正面に建ったからだ。巨大資本が強すぎたのである。努力や工夫ではどうにもならない“力の差”が、地域の店を市場から押し出していく。巨大資本の圧倒的な影響力の前に、地域の店は立ち尽くす他なかったのである。

全国どこでも同じ“イオンの顔”が街を均質化する

イオンは北海道から沖縄まで全国に存在するが、違うのは売られている豆腐の種類くらい。

棚には大して安くもないトップバリュのPB商品が並び、どの店舗も同じ空気をまとっている。これは便利さではなく、地域文化の均質化である。

イオンが増えるほど街は画一化し、個性が薄れ、生活は巨大資本の都合で塗り潰されていく。「日本のどこへ行っても同じ景色」こそが、イオンがもたらす最大の損失だ。

消費者の無自覚が地域の個性を失くす

イオンの「お買い物アプリ」が便利なのは事実だ。たまにクーポンが適用されなくてイラつくが、イオンのアプリはスーパーのアプリの中では、群を抜いてよく出来ている。

しかし、その便利さの裏で地域の店が静かに姿を消し、街の個性が薄れ、選択肢が減っていく。

それでもイオンに客が流れ続ける限り、地域は単調化し続ける。巨大資本は消費者の無自覚を最も好む。気づかないふりを続けることが、地域の個性を失くす最大の要因になっている。

イオンを拒んだ釧路市が直面した“もう一つの衰退”

北海道釧路市はイオンの中心市街地への進出を拒んだ街だ。

地元商店街を守るための判断だったが、その後の釧路市は人口減少と購買力の低下が重なり、中心市街地の空洞化が加速した。イオンを受け入れた街とは違う形で、釧路市は巨大資本の商圏から外れ、消費者が郊外へ流れる構造になったのである。

この事例は、“イオンが来ても来なくても衰退する”という、日本の地方が抱える現実を象徴している。

巨大資本に奪われた街の未来

イオンが全国に広がっても、人間の幸福度が増えるわけではない。

むしろ、地域の個性や生活の豊かさが削られていく。巨大資本に従う必要はどこにもない。消費者が「地域の店を守りたい」と選び取ること。それこそが静かに圧迫されつつある街の未来を守る唯一の抵抗になる。「お買い物アプリ」の便利さの影で失われるものに目を向けることから、地域の再生は始まることだろう。

コネタ

なぜイオンの半額シール弁当に群がる人々は「後悔」を買いに行くのか?

カートで塞いだり半額弁当ごときで必死に争う人たちのイメージ

どこのスーパーでも半額シール弁当に群がる人々の姿は醜い。

だが、イオンのそれは別格だ。その弁当は見た目こそ華やかだが、イオンで売られている弁当の味とボリュームは、そこらの中堅スーパーに劣ることが多い。買ってから後悔するのが目に見えているのに、なぜ群がるのか。これは科学的におかしい。

半額シールに群がる人々の動きは「鯉」そのもの

午後八時、イオンの売れ残った弁当に赤い半額シールが貼られる。その瞬間、空気が変わる。人々はカートを止め、目を光らせ、距離感を失う。誰かが一歩踏み出せば、群れは連鎖的に動き出す。まるで池にエサが投げ込まれた瞬間の鯉だ。

だが、鯉よりも醜いのは人間たちの工夫である。買い物カートを横に広げ、弁当棚の前を塞ぐオバサン。まるで「防御壁」を築くかのように、他人が手を伸ばせないようにブロックする。後ろに並ぶ人々は苛立ちを募らせるが、彼女は知らぬ顔で弁当を吟味する。

さらに、弁当を一度に両手でかき集め、カゴに放り込む男もいる。選ぶのではなく「確保」するのだ。味や中身はどうでもいい。半額シールが貼られていることだけが重要であり、彼にとっては「勝利の証」なのだ。

その周囲では、他人の手元をじっと見つめ、隙を突いて横から弁当を奪う者もいる。まるで群れの中で餌を横取りする鯉のように、理性は消え、ただ「取る」ことだけが目的化している。

しかし、その弁当は見た目こそ華やかでも、味は中堅スーパーに劣る。手に入れた瞬間は「勝った」と思うが、食べた瞬間に「負けた」と悟る。後悔すると分かっていても人は群がる。なぜなら、彼らは合理性ではなく「群れの儀式」に従っているからだ。

この光景は、資本主義の「王」が撒くエサに群がる人間の縮図である。疲れ果てた人々が、後悔を知りながら手を伸ばす。その姿は鯉よりも哀しい。鯉は本能に忠実だが、人間は絶望を抱えながら、なお「希望のふり」をして群がるのだ。

後悔を抱えた帰宅の姿

弁当を手にした人々は、レジを通過した瞬間だけ小さな勝利の笑みを浮かべる。半額で手に入れたという事実が、疲れ切った一日の中で唯一の「成果」に見えるからだ。だが、その笑みはイオンを出て夜の住宅街に足を踏み入れるとすぐに消える。袋の中にあるのは、見た目だけ華やかな弁当。赤いシールが貼られていること以外に誇れるものはない。

帰宅の道すがら、足取りは重い。袋の中身が揺れるたびに後悔の予感が膨らむ。家に着けば、テーブルの上に弁当を置き、テレビの音を聞きながら箸を進める。だが、口に入れた瞬間に違和感が広がる。米はパサつき、揚げ物は油に沈み、煮物は味を忘れている。華やかさは虚飾にすぎず、舌に残るのは「安さの代償」という苦味だ。

食べながら心の中でつぶやく。「やっぱり中堅スーパーの方が良かった」と。だが、その後悔は翌日には薄れてしまう。なぜなら、翌日の夜も同じ時間にイオンの棚の前に立ってしまうからだ。人は合理性ではなく習慣に従う。半額シールが貼られる時間帯は、生活に疲れ果てた人々にとって「儀式の開始」を告げる鐘のようなものだ。

この帰宅の姿は、敗北を抱えた人間の縮図である。勝利の笑みは一瞬、後悔は長く続く。それでも人は繰り返す。後悔を抱えながら、また群れに加わる。そこにあるのは希望ではなく、絶望の習慣。人間は絶望を抱えながらイオンの弁当を持ち帰るのだ。

イオンに群がる人間は鯉よりも哀しい

半額シールは救済ではなく絶望の符丁である。人々はその合図に従い、後悔を抱えたまま帰路につく。資本の冷酷な合理性の中で、人間は本能に忠実な鯉よりも哀しい存在へと堕していく。