ハウステンボス

旅モノ

【佐世保】観光地の亡霊「ハウステンボス」は破綻するべくして破綻したテーマパークだった

周辺の住所はハウステンボス町となっている

佐世保に来たついでに、佐世保、いや九州を代表する観光地であるハウステンボスの外周を歩いた。

入場はしていない。する必要がなかった。数分でわかった。これは、かつて“観光地”と呼ばれたものの亡骸だ。ヨーロッパ風の街並みは、明治時代の西洋への憧れをそのまま引きずっている。令和の空の下で、誰にも届かない演出が空回りしていた。

観光地とは本来、語られるべき風景を持つ場所だ。だが、語られすぎた場所は、語る価値を失う。ハウステンボスはその典型だった。無料エリアがあるというが、そこへ至る道は迷路のように隠され、最寄り駅からの道はゴミだらけ。地元の人間にも愛されていないことが、風景の隅々から滲み出ていた。

歩いているうちに、これは“観光地”ではなく、“観光地だった場所”なのだと気づく。演出だけが残り、観客は消えた。語られすぎたテーマパークは、語る言葉を持たない。だからこそ、旅人はその沈黙に耳を澄ませるしかない。

散乱したゴミが語る地元の無関心

ハウステンボス駅と名付けられた最寄り駅の周辺は、驚くほどゴミが多かった。空き缶、コンビニ袋、カップ麺の容器、タバコの吸い殻。そこらのヤンキーの溜まり場よりゴミが多い。

観光地の玄関口がこの有様ということは、地元の人間にも愛されていない証拠だ。ゴミ捨て場と同じ扱い。誰も掃除しない。誰も誇りを持っていない。観光地とは、地元の人々の“まなざし”によって支えられるものだ。そのまなざしが、ここにはない。

観光地が衰退するのは、観光客が減るからではない。地元の人間がその場所を見限ったとき、観光地は本当の意味で死ぬ。ハウステンボス駅の駅前は、その死を静かに投影していた。

無料エリアは簡単には辿り着けない

「無料エリアもあります」と言われて、素直に信じた自分が甘かった。

案内板は抽象的で、地図は現代アートのよう。どこが入場無料なのか、どこから有料なのか、その境界線がわからない。そもそも、入り口がわからない。まるで「無料で見せる気はないが、無料とは言っておきたい」という施設側の矛盾が、そのまま空間設計に現れているようだった。

現地に行っても全くわからなかったが、公式サイトでよくよく調べると、駅側にあるメインの入り口を無視して、回り込むように2キロも施設の外周を歩けという。

観光地における“無料エリア”とは、本来、街との接続点であり、旅人との最初の対話の場であるはずだ。だがここでは、それが意図的に曖昧にされている。入れるはずの場所が、入れないように設計されている。無料で見られるはずの景色に、簡単には辿り着けない。これはもう、観光地としての誠実さを放棄した構造としか言いようがない。

観光客はどこに消えたのか

平日だったとはいえ、歩いている人の少なさには驚いた。広大な敷地に対して、あまりに人がいない。ベンチは空席のまま、売店のスタッフは所在なげに立ち尽くしている。演出だけが残り、観客がいない。かつて誰かに見せるために作られた風景が、今はただの背景になっていた。

観光地とは、風景と人の交差点である。だがここでは、風景だけが空回りし、人がいない。語りかける相手を失った演出は、ただの空虚な装飾に成り下がる。観光客がいないという事実は、物語の終焉を意味している。

駐車場だけが立派で中身は空っぽ

施設の周りには、馬鹿みたいに広い駐車場がある。だが、数台の送迎バスを除けば車はほとんど停まっていない。空間だけが立派で、機能は死んでいる。かつての繁栄を引きずったまま、今はただの空白になっている。舗装されたアスファルトの海に、ぽつんと数台の車が浮かんでいる光景は、むしろ詩的ですらあった。

観光地の駐車場は、その場所の“期待値”を映す鏡だ。ここには、かつての期待だけが残っている。今の現実とは、まったく噛み合っていない。構造だけが残り、意味は失われた。まるで、誰も来ないことを知りながら、誰かが来るふりを続けているようだった。

ヨーロッパ風という古びた憧れ

記念にヨーロッパ風のトイレで用を足そうとしたが鍵がかかっていた

街並みはヨーロッパ風。石畳、レンガ造り、運河、風車。だが、それらはすべて“明治時代の西洋への憧れ”をそのまま引きずった設計思想に見えた。令和の今、それはもはや“おしゃれ”ではない。古びた価値観が、広大な敷地の中で空回りしていた。

“ヨーロッパ風=高級・洗練”という幻想は、すでに崩れている。旅人はもっと多様な価値観を持ち、もっと複雑な風景を求めている。だが、ここではその更新が止まっていた。演出は古く、陳腐な空間は過去に閉じ込められていた。

ミッフィーだけが生きている

唯一、価値があると感じたのはミッフィー関連の展示だった。キャラクターの力は強い。子どもたちの目が輝き、写真を撮る親の姿もあった。だが、それ以外はすべて空虚だった。テーマも演出も、誰にも届いていない。ミッフィーだけが孤独に機能していた。

キャラクターは、時代を超えて愛される。だが、それは“場所”の力ではない。ミッフィーは、ここでなくても輝ける。つまり、ハウステンボスという場所が提供している価値ではないということだ。施設の中で唯一生きているものが、施設の外から借りてきた存在だという事実は、この場所の無力さを端的に表しているようだった。

ミッフィーに命を預け、明治の憧れにすがる施設

ハウステンボスを歩いて感じたのは、借り物の命が、かろうじてこの場所を現世に繋ぎ止めているということだった。

かつては誰かに見せるために設えられた風景が、今はただ沈黙の中に沈んでいる。ヨーロッパ風の街並みは、明治の憧れを引きずったまま、時代の更新を拒んでいるようだった。そこにあるのは、過去の演出が剥がれ落ちた構造の残骸だけだ。

駅からの道はゴミにまみれ、地元のまなざしは感じられない。観光客の姿はまばらで、広すぎる駐車場には空白だけが広がっていた。無料エリアは迷路のように隠され、唯一ミッフィーだけが孤独に機能していた。だがそれは、ハウステンボス自身の魅力ではない。借り物の命が、かろうじてこの場所を現世に繋ぎ止めている。

観光地とは、語りかける力を持つ場所であるべきだ。だが、語りすぎた末に言葉を失い、誰にも届かなくなったとき、その場所はただの空間になる。旅人はその沈黙を記録する。語られない風景の中に、語られすぎた時代の亡霊が立ち尽くしていた。