佐世保

旅モノ

長崎・佐世保への旅で語り切れなかった良かったこと、残念だったこと

17年ぶりの長崎旅行。いくつか記事を書いたが、語り残したものは多い。グルメの失望も、ハウステンボスの広すぎる駐車場についても書いたはずなのに、どこか抜けている。

旅行中に書いた「気づきメモ」を元に、書ききれなかった良かったことと、残念だったことを記録として記述したい。

佐世保の街並みと空気

佐世保駅周辺の市街地は、観光地という面もあれば生活の延長線上にある街という印象が強かっただった。日本一の長さというアーケード街は広くて歩きやすいが、全体的に落ち着いた雰囲気。百円ショップが多く、観光地というより生活に根差している雰囲気が感じられた。

もっとも、札幌市のアーケード街「狸小路」にしても、コロナ禍で外国人が来れなかった時期はガラガラだったし、那覇のアーケード街や国際通りも外国人が来れない時期においては、人っ子ひとりいないくらいにガラガラだったので、外国人観光客が思いのほか少なかったというのもあるだろう。

有名飲食店は極端な観光地価格

全国各地の様々な観光地とされる街に行ったが、佐世保の名物を提供する店は観光地価格が著しいように感じた。

名物のレモンステーキは2~3千円くらい、佐世保バーガーも1~2千円くらい。観光地メニューと言えど、需要と供給の釣り合ったところで価格が決まるとは思うが、強気な価格設定のわりには店舗が賑わっている様子は感じられなかった。

北海道の観光地だと、強気な観光地価格の店にも観光バスが乗り付けて大量に客が供給されたりするけれど、街中の店でそういった光景を見ることはなかった。

トルコライスはどこにでもあるわけじゃない

今回の長崎の旅で特に食べたいと思っていたのはトルコライス。

長崎県内ならどこでもあるかと言えばそうではなく、佐世保の中心市街地では、むしろ数店程度しか提供している店はなかった。Googleマップあるあるだが、情報が間違っていたり、目当ての店に行ってみると実は定休日だったりして、有りつくのに苦労した。

2日や3日程度の滞在だったら、長崎に着いた瞬間からトルコライスの店を探した方がいいレベル。空港にも食べられる店はあったけど、着いて早々に空港で食べるのも嫌だからスルーしたら、散々な目にあったという笑い話。

長崎の交通とアクセスの印象

長崎から他県へ移動する際、特に熊本や鹿児島方面へは列車や高速バスでは福岡を経由する必要があり、地理的な不便さを感じた。西九州新幹線の部分開通によって一部は改善されているが、九州全体を巡る旅を考えるとアクセスが厄介に思える部分もある。

長崎から鉄道とフェリーを使って熊本に渡るルートもあるが、仮にそれを使ったとしても時間と料金がかさむ。

2大都市の長崎市と佐世保市の移動も快速列車で2時間ほどかかり、ひょいっと気楽に移動というわけにはいかない。

米軍基地の街とイメージして行くと微妙

日本にある米軍の海軍基地としては横須賀に次ぐ規模だと聞いたが、一般観光客がふらっと目にする範囲だと、沖縄で街のど真ん中に滑走路があるのを見慣れていたからか、思っていたほどの米基地っぽさは感じられなかった。

海軍基地という性質上、海沿いのエリアに施設が集中していて、当然ながら一般人が立ち入ることはできないというのもあるだろう。

長崎市や佐世保市のホテル価格は高め

クチコミが5段階で2くらいの評判の悪い難ありなビジネスホテルですら、1泊5千円くらいが相場。少し頑張ってクチコミが3~4くらいの星になる「普通」のビジネスホテルだと6~7千円くらい。

長崎市だと1か月くらい前なら安いホテルを選べるけれど、直前になると8千円くらい出さないと泊まれるホテルが見つからないかもしれない様子だった。

長崎市も佐世保市も大村市も、宿泊者は出張のビジネス客が多い印象で、そうなるとポケットマネーで泊まる一般観光客を奪い合う必要もないから、無理に安くしなくてもいいという理屈で高いように思った。

その構造は飲食店などにも言えて、長崎名物を提供する店でも実際は地元客が客層の中心だったりと、観光客に必ずしも優しい所ではないという印象も持った。

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【佐世保】九十九島遊覧船で海を50分漂った日 ~ただただ島々が並ぶ風景~

観光地には語るべき風景が必要だ。語られるに値する物語、あるいは語られなくとも沈黙の中に何かが宿る風景。

だが、佐世保観光のメジャースポットとされる九十九島遊覧船には、そのどちらもなかった。佐世保に来たついでに乗ってみたが、10分で飽きた。いや、正確には出航して数分で「これはダメだ」と思った。島がある。ただそれだけ。風景が語りかけてこなかった。

島の数だけが記憶に残った

九十九島遊覧船パールクィーン

白くて優雅な船体。真珠雑貨のショップ。バリアフリー構造。展望デッキには特別室もある。九十九島遊覧船「パールクィーン」は、見た目と設備だけなら“整っている”。定員280名、所要時間約50分、料金は大人2,200円。スペックは申し分ない。だが、問題はその“中身”だった。

船は静かに進む。208の島々が並ぶ。それだけ。島の形に物語があるわけでもなく、風景に仕掛けがあるわけでもない。解説は控えめで、演出は皆無。風景は沈黙し、時間だけが過ぎていく。50分漂った末に残ったのは、「島が多かったな」という感想だけだった。それは揺れ動いた心ではなく、ただの情報だった。

乗客たちは風景から目を逸らし始めた

船が出航して20分経った頃には、乗客の何人かは島々を背にした。指先はスマホを滑り、目線は通知に吸い込まれ、会話は海とは無関係のものになっていた。船は確かに進んでいたが、乗客の関心はすでに別の所にあった。

それは彼らの怠慢ではない。反応する余地がなかったのだ。どこが見どころなのか、なぜこの航路なのか、何を感じてほしいのか。そうした“語りかけ”がないまま、船は進む。旅人の感性に投げかけてくるものがない。

結果、乗客は島々の景色を自分の時間に塗り替える。スマホ、雑談、瞑想。風景に向き合う理由がなければ、目の前の海はただの背景に変わる。208の島々は、十分な関心を寄せられないまま、通り過ぎていく。

長く感じる50分、薄く感じる体験

九十九島遊覧船の所要時間は約50分。一見すると「たっぷり楽しめる」と思わせる数字だが、実際に乗ってみるとその長さが裏目に出る。風景に変化が乏しく、演出も控えめ。乗客はただ海を漂うだけで2,200円。体験としての密度が薄いまま、時間だけが過ぎていく。

あるクチコミには「20分で1,000円にしてほしい」という声もある。これは単なる価格交渉ではなく、体験の本質を突いた批判だ。退屈な時間を長く引き延ばすより、短くして濃くする方が誠実である。50分という設定は、体験の質を薄めているようにも思える。

比較対象として思い出すのは、網走の流氷クルーズ。高波などで航路が短縮される場合は、料金が半額以下にまで下がる。体験の質が下がるから安くする、という誠意が感じられる。流氷が見られない可能性が高い場合には、事前にその可能性が告知された上で、客は乗船するかどうかを選択することができる。

もし、この九十九島遊覧船が20分で1,000円だったなら、乗客は「短かったけど、まあこんなものか」と納得できたかもしれない。だが、50分という長さが“退屈”を強調し、価格が“期待”を裏切る。この設計は、旅人の体験を重視するものではない。

海きらら? 水族館らしさという既視感

九十九島遊覧船のチケットを提示すると近隣の水族館「海きらら」に割引価格で入館できる。セットで回ればお得、という設計らしい。だが、その水族館が本当に“行く価値のある場所”かどうかは別の話だ。

海きららはクラゲやイルカ、九十九島の海の生き物を展示する水族館。パンフレットには「九十九島の自然を感じられる」とあるが、展示構成や演出は全国どこにでもある水族館と本質的には大差ない。クラゲの照明演出、イルカのショー、生き物体験コーナー。自分にしたら既視感の連続。“水族館らしさ”をなぞっている印象が強い。

新潟のマリンピア日本海の年間パスポートを持つ自分にとって、こうした“どこにでもある水族館”は通過点でしかない。割引制度は体験の価値を高めるための仕掛けではなく、売上を伸ばすための導線にすぎない。遊覧船と水族館をセットにすれば、観光客は半日くらいは過ごせる。だが、薄い体験を二つ重ねても、観光地としての満足感は感じられないだろう。

陸地の周辺施設に漂う時代錯誤感

九十九島遊覧船の乗り場周辺には観光客向けの飲食店や土産物屋が多いが、観光地としての“開かれた感覚”が欠けていた。

例えば、土地の名物を提供する飲食店。「店内が狭いためベビーカーのご利用はご遠慮ください」「静かにお食事されたい方のために配慮をお願いしています」といった類の文言が店のサイトに並ぶ。直接的な拒否ではない。だが、読み手には十分伝わる。「子連れは歓迎しない」「むしろ来るな」という空気が、遠回しに、しかし確実に伝達されてくる。表面的には丁寧だが、実質的には選別だ。

そしてこれは、たまたまその店だけの話ではない。佐世保市内を歩いていても、似たような空気を感じる場面が多かった。店の雰囲気、掲示の文言、接客のトーン。どれも「来てほしい人だけ来てくれればいい」という姿勢が滲み出ている。観光地としての“開かれ方”よりも、“馴染み客の快適さ”を優先する構造が、街のあちこちに埋め込まれていた。

島の数だけが記憶に残る静かな終わり

九十九島遊覧船は、旅の顔をしていた。白く塗られた船体、展望デッキ、パンフレット、水族館とのセット割引。すべてが「観光地らしさ」を演出していた。だが、50分間の航行で得られたものは、208という数字だけだった。

旅人は語りのない海を漂いながら、静かな海を後にした。

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【佐世保】観光地の亡霊「ハウステンボス」は破綻するべくして破綻したテーマパークだった

周辺の住所はハウステンボス町となっている

佐世保に来たついでに、佐世保、いや九州を代表する観光地であるハウステンボスの外周を歩いた。

入場はしていない。する必要がなかった。数分でわかった。これは、かつて“観光地”と呼ばれたものの亡骸だ。ヨーロッパ風の街並みは、明治時代の西洋への憧れをそのまま引きずっている。令和の空の下で、誰にも届かない演出が空回りしていた。

観光地とは本来、語られるべき風景を持つ場所だ。だが、語られすぎた場所は、語る価値を失う。ハウステンボスはその典型だった。無料エリアがあるというが、そこへ至る道は迷路のように隠され、最寄り駅からの道はゴミだらけ。地元の人間にも愛されていないことが、風景の隅々から滲み出ていた。

歩いているうちに、これは“観光地”ではなく、“観光地だった場所”なのだと気づく。演出だけが残り、観客は消えた。語られすぎたテーマパークは、語る言葉を持たない。だからこそ、旅人はその沈黙に耳を澄ませるしかない。

散乱したゴミが語る地元の無関心

ハウステンボス駅と名付けられた最寄り駅の周辺は、驚くほどゴミが多かった。空き缶、コンビニ袋、カップ麺の容器、タバコの吸い殻。そこらのヤンキーの溜まり場よりゴミが多い。

観光地の玄関口がこの有様ということは、地元の人間にも愛されていない証拠だ。ゴミ捨て場と同じ扱い。誰も掃除しない。誰も誇りを持っていない。観光地とは、地元の人々の“まなざし”によって支えられるものだ。そのまなざしが、ここにはない。

観光地が衰退するのは、観光客が減るからではない。地元の人間がその場所を見限ったとき、観光地は本当の意味で死ぬ。ハウステンボス駅の駅前は、その死を静かに投影していた。

無料エリアは簡単には辿り着けない

「無料エリアもあります」と言われて、素直に信じた自分が甘かった。

案内板は抽象的で、地図は現代アートのよう。どこが入場無料なのか、どこから有料なのか、その境界線がわからない。そもそも、入り口がわからない。まるで「無料で見せる気はないが、無料とは言っておきたい」という施設側の矛盾が、そのまま空間設計に現れているようだった。

現地に行っても全くわからなかったが、公式サイトでよくよく調べると、駅側にあるメインの入り口を無視して、回り込むように2キロも施設の外周を歩けという。

観光地における“無料エリア”とは、本来、街との接続点であり、旅人との最初の対話の場であるはずだ。だがここでは、それが意図的に曖昧にされている。入れるはずの場所が、入れないように設計されている。無料で見られるはずの景色に、簡単には辿り着けない。これはもう、観光地としての誠実さを放棄した構造としか言いようがない。

観光客はどこに消えたのか

平日だったとはいえ、歩いている人の少なさには驚いた。広大な敷地に対して、あまりに人がいない。ベンチは空席のまま、売店のスタッフは所在なげに立ち尽くしている。演出だけが残り、観客がいない。かつて誰かに見せるために作られた風景が、今はただの背景になっていた。

観光地とは、風景と人の交差点である。だがここでは、風景だけが空回りし、人がいない。語りかける相手を失った演出は、ただの空虚な装飾に成り下がる。観光客がいないという事実は、物語の終焉を意味している。

駐車場だけが立派で中身は空っぽ

施設の周りには、馬鹿みたいに広い駐車場がある。だが、数台の送迎バスを除けば車はほとんど停まっていない。空間だけが立派で、機能は死んでいる。かつての繁栄を引きずったまま、今はただの空白になっている。舗装されたアスファルトの海に、ぽつんと数台の車が浮かんでいる光景は、むしろ詩的ですらあった。

観光地の駐車場は、その場所の“期待値”を映す鏡だ。ここには、かつての期待だけが残っている。今の現実とは、まったく噛み合っていない。構造だけが残り、意味は失われた。まるで、誰も来ないことを知りながら、誰かが来るふりを続けているようだった。

ヨーロッパ風という古びた憧れ

記念にヨーロッパ風のトイレで用を足そうとしたが鍵がかかっていた

街並みはヨーロッパ風。石畳、レンガ造り、運河、風車。だが、それらはすべて“明治時代の西洋への憧れ”をそのまま引きずった設計思想に見えた。令和の今、それはもはや“おしゃれ”ではない。古びた価値観が、広大な敷地の中で空回りしていた。

“ヨーロッパ風=高級・洗練”という幻想は、すでに崩れている。旅人はもっと多様な価値観を持ち、もっと複雑な風景を求めている。だが、ここではその更新が止まっていた。演出は古く、陳腐な空間は過去に閉じ込められていた。

ミッフィーだけが生きている

唯一、価値があると感じたのはミッフィー関連の展示だった。キャラクターの力は強い。子どもたちの目が輝き、写真を撮る親の姿もあった。だが、それ以外はすべて空虚だった。テーマも演出も、誰にも届いていない。ミッフィーだけが孤独に機能していた。

キャラクターは、時代を超えて愛される。だが、それは“場所”の力ではない。ミッフィーは、ここでなくても輝ける。つまり、ハウステンボスという場所が提供している価値ではないということだ。施設の中で唯一生きているものが、施設の外から借りてきた存在だという事実は、この場所の無力さを端的に表しているようだった。

ミッフィーに命を預け、明治の憧れにすがる施設

ハウステンボスを歩いて感じたのは、借り物の命が、かろうじてこの場所を現世に繋ぎ止めているということだった。

かつては誰かに見せるために設えられた風景が、今はただ沈黙の中に沈んでいる。ヨーロッパ風の街並みは、明治の憧れを引きずったまま、時代の更新を拒んでいるようだった。そこにあるのは、過去の演出が剥がれ落ちた構造の残骸だけだ。

駅からの道はゴミにまみれ、地元のまなざしは感じられない。観光客の姿はまばらで、広すぎる駐車場には空白だけが広がっていた。無料エリアは迷路のように隠され、唯一ミッフィーだけが孤独に機能していた。だがそれは、ハウステンボス自身の魅力ではない。借り物の命が、かろうじてこの場所を現世に繋ぎ止めている。

観光地とは、語りかける力を持つ場所であるべきだ。だが、語りすぎた末に言葉を失い、誰にも届かなくなったとき、その場所はただの空間になる。旅人はその沈黙を記録する。語られない風景の中に、語られすぎた時代の亡霊が立ち尽くしていた。