修学旅行

旅モノ

全員で同じ場所へ行く「修学旅行」という団体行動主義の不自然な儀式

画像は小学校時代に酒も飲めないのに見学に行った男山酒造

修学旅行という行事には、どこか説明のつかない不自然さがある。

全国の学校が毎年ほぼ同じ観光地へ向かい、同じ寺を見て、同じ資料館に入り、同じ土産物屋で同じ菓子を買う。生徒たちは列を作り、旗を持った先生やガイドの後ろを歩き、決められた時間に決められた場所へ移動する。

その光景は旅行というより「団体行動に従順な大人」を育てるための予行演習のように見える。旅の本質が自由や偶然にあるのだとすれば、修学旅行はその真逆を行く儀式でしかない。

修学旅行は“旅”ではなく管理された移動

結論から言うと、修学旅行は旅ではない。

それは学校という制度をそのまま観光地に持ち込んだ“管理された移動”だ。京都の清水寺では、先生が「はい、ここで写真を撮ります」と指示し、生徒たちは同じ角度で同じ写真を撮る。広島の資料館では展示を読む時間もなく、ただ“来たことにする”ための通過儀礼が行われる。

沖縄の平和学習では、内容よりも「静かに聞くこと」が評価される。そこに旅の自由も、発見も、偶然も存在しない。あるのは「決められた行動を決められた通りにこなす」という訓練だけだ。

全国の学校が同じ観光地に向かう奇妙さ

私立の金持ちの子供が通うような学校を別にすれば、一般的な学校での修学旅行の行き先は驚くほど固定されている。

京都、奈良、広島、沖縄。理由は単純で、受け入れ体制が整っていて、教育的という名目が立ち、そして何より前例があるからだ。

京都のバス会社は修学旅行生を乗せることを前提に動き、奈良公園の鹿は生徒が差し出すせんべいに慣れ、沖縄のホテルは修学旅行プランを用意している。こうした“修学旅行産業”が出来上がっているため、学校はそこから外れる選択をほとんどしない。

つまり、修学旅行は「みんなが行っているから今年もそこに行く」という前例主義の象徴であり、旅の選択ではなく制度の惰性でしかない。

全員で同じ場所に行く不自然さ

修学旅行の最大の不自然さは、興味も関心も違う生徒たちが、全員で同じ場所に行く点にある。

歴史に興味がある生徒もいれば、自然に触れたい生徒もいる。美術館を歩きたい生徒もいれば、街の雑踏を楽しみたい生徒もいる。

行先と自分の趣味嗜好が合わないために、京都の三十三間堂で退屈そうに立ち尽くす生徒や、奈良の大仏の前で「とりあえず写真だけ撮ればいいんでしょ」と言う生徒がいる。その姿は、旅というより「集団を優先する訓練」である。

修学旅行は“高齢者団体ツアー”の予告篇

修学旅行の光景は、暇と金を持て余した高齢者の団体ツアーと驚くほど似ている。

旗を持った引率者の後ろを歩き、決められた時間に決められた店に入り、同じ写真を撮り、同じ土産を買う。違うのは年齢だけで、構造は同じだ。そして最も恐ろしいのは、修学旅行で刷り込まれた行動様式は、大人になってからも抜けないという点だ。

観光地で「とりあえずガイドブックの“定番スポット”を回ればいい」と思い込む人が多いのは、こうした“団体行動主義”が子供時代の修学旅行で刷り込まれたからでもある。修学旅行は旅の楽しさを教えるのではなく「自分で選ばないことに慣れさせる」 という形で、大人になってからの行動さえも静かに縛り続ける。

旅の本質は“自分で選ぶこと”である

旅の価値は、自分で選び、自分で歩き、自分で迷い、自分で発見するというプロセスにある。

しかし、修学旅行はそのすべてを奪い、決められた旅を強制する。その結果、大人になっても「自分で選ぶ旅」を味わえない人が多くなる。修学旅行は旅の名を借りた“団体行動の刷り込み装置”として、子どもたちに「自分で選ばないこと」に慣れさせてしまう。

全員で同じ場所へ行き、同じものを見て、同じ行動を取るという形式は、個性を育てるどころか、判断力と主体性を奪う訓練に近い。こうして育った人たちは、会社でも旅行でも「みんなと同じであること」を無意識に選び、違和感を覚えても声を上げず、集団の流れに身を委ねるようになる。

旅の本質を取り戻すためには、まずこの儀式の不自然さに気づき、集団行動を前提としない“自分で選ぶ旅”を取り戻す必要がある。