
カートで塞いだり半額弁当ごときで必死に争う人たちのイメージ
どこのスーパーでも半額シール弁当に群がる人々の姿は醜い。
だが、イオンのそれは別格だ。その弁当は見た目こそ華やかだが、イオンで売られている弁当の味とボリュームは、そこらの中堅スーパーに劣ることが多い。買ってから後悔するのが目に見えているのに、なぜ群がるのか。これは科学的におかしい。
目次
半額シールに群がる人々の動きは「鯉」そのもの
午後八時、イオンの売れ残った弁当に赤い半額シールが貼られる。その瞬間、空気が変わる。人々はカートを止め、目を光らせ、距離感を失う。誰かが一歩踏み出せば、群れは連鎖的に動き出す。まるで池にエサが投げ込まれた瞬間の鯉だ。
だが、鯉よりも醜いのは人間たちの工夫である。買い物カートを横に広げ、弁当棚の前を塞ぐオバサン。まるで「防御壁」を築くかのように、他人が手を伸ばせないようにブロックする。後ろに並ぶ人々は苛立ちを募らせるが、彼女は知らぬ顔で弁当を吟味する。
さらに、弁当を一度に両手でかき集め、カゴに放り込む男もいる。選ぶのではなく「確保」するのだ。味や中身はどうでもいい。半額シールが貼られていることだけが重要であり、彼にとっては「勝利の証」なのだ。
その周囲では、他人の手元をじっと見つめ、隙を突いて横から弁当を奪う者もいる。まるで群れの中で餌を横取りする鯉のように、理性は消え、ただ「取る」ことだけが目的化している。
しかし、その弁当は見た目こそ華やかでも、味は中堅スーパーに劣る。手に入れた瞬間は「勝った」と思うが、食べた瞬間に「負けた」と悟る。後悔すると分かっていても人は群がる。なぜなら、彼らは合理性ではなく「群れの儀式」に従っているからだ。
この光景は、資本主義の「王」が撒くエサに群がる人間の縮図である。疲れ果てた人々が、後悔を知りながら手を伸ばす。その姿は鯉よりも哀しい。鯉は本能に忠実だが、人間は絶望を抱えながら、なお「希望のふり」をして群がるのだ。
後悔を抱えた帰宅の姿
弁当を手にした人々は、レジを通過した瞬間だけ小さな勝利の笑みを浮かべる。半額で手に入れたという事実が、疲れ切った一日の中で唯一の「成果」に見えるからだ。だが、その笑みはイオンを出て夜の住宅街に足を踏み入れるとすぐに消える。袋の中にあるのは、見た目だけ華やかな弁当。赤いシールが貼られていること以外に誇れるものはない。
帰宅の道すがら、足取りは重い。袋の中身が揺れるたびに後悔の予感が膨らむ。家に着けば、テーブルの上に弁当を置き、テレビの音を聞きながら箸を進める。だが、口に入れた瞬間に違和感が広がる。米はパサつき、揚げ物は油に沈み、煮物は味を忘れている。華やかさは虚飾にすぎず、舌に残るのは「安さの代償」という苦味だ。
食べながら心の中でつぶやく。「やっぱり中堅スーパーの方が良かった」と。だが、その後悔は翌日には薄れてしまう。なぜなら、翌日の夜も同じ時間にイオンの棚の前に立ってしまうからだ。人は合理性ではなく習慣に従う。半額シールが貼られる時間帯は、生活に疲れ果てた人々にとって「儀式の開始」を告げる鐘のようなものだ。
この帰宅の姿は、敗北を抱えた人間の縮図である。勝利の笑みは一瞬、後悔は長く続く。それでも人は繰り返す。後悔を抱えながら、また群れに加わる。そこにあるのは希望ではなく、絶望の習慣。人間は絶望を抱えながらイオンの弁当を持ち帰るのだ。
イオンに群がる人間は鯉よりも哀しい
半額シールは救済ではなく絶望の符丁である。人々はその合図に従い、後悔を抱えたまま帰路につく。資本の冷酷な合理性の中で、人間は本能に忠実な鯉よりも哀しい存在へと堕していく。








