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北海道&東日本パスの鉄道旅で「遠軽駅」を素通りするのは勿体ない!! 鉄道と共に歩んだ街の歴史と風景

遠軽駅を「ただの乗換駅」として通過するのは非常に勿体ない

「北海道&東日本パス」で北海道を旅をしているとき、遠軽駅は多くの旅人にとっては「ただの乗換駅」として扱われがちだ。

旭川から北見や網走方面へ、あるいは網走や北見から旭川方面へ行くとき、遠軽駅では改札から一歩も出ることもなく、隣のホームで列車に乗り継ぐだけ。そんな経験をしたことのある旅人も多いだろう。

だが、それは“鉄道ファン”の旅の仕方としては、あまりにも味気ない。遠軽という街は、北海道の鉄道の歴史そのものと言ってよいほどに、鉄道とは切り離せない濃厚な歴史を持つ場所なのである。

かつて激しい誘致合戦が繰り広げられた遠軽駅

最盛期は279人もの職員を抱えていたほどの遠軽駅

遠軽駅が開業したのは大正4年。平成27年には開駅100周年を迎えた。

鉄道の到来は、遠軽という街の発展を決定づけた大きな転機だった。北見から湧別へ伸びた湧別線が最初に開通し、続いて昭和2年には旭川から伸びる現在の石北本線が到達したことで、遠軽は複数の路線が交わる分岐駅となった。これが遠軽の街が交通の要衝として栄えるきっかけとなる。

分岐駅の座を巡っては、遠軽駅と安国駅の間で激しい誘致合戦が繰り広げられた。地元の開拓者たちは、自らの土地を鉄道用地として差し出し、私財を投げ打ってまで鉄道を呼び込もうとした。彼らの執念が遠軽駅を分岐駅へと押し上げたのである。

開拓期から交通の中心として街を支えてきた遠軽駅は、現在も石北本線の主要駅として網走駅、北見駅に次ぐ乗客数を誇り、地域の生活を支え続けている。このことから、遠軽という街は鉄道の歴史そのものとも言えるのだ。

遠軽駅は複数路線が交差するターミナル

遠軽駅に停車するJR北海道H100形気動車

普通の途中駅であれば、線路が一直線に貫き、構内もコンパクトにまとまる。しかし、遠軽駅の風格は趣が異なる。

構内は広く、線路は曲がり、分岐が多く、どこか“整理役”を任されていたような雰囲気が漂う。これは遠軽駅が複数の路線をまとめる機能を担ってきた歴史を物語っている。

かつて、遠軽駅は「旭川方面」「北見・網走方面」「湧別(オホーツク沿岸)方面」という、目的も性格も、線路の規格すらも違う、異なる三方向の鉄道路線が集まっていた。これらは同じ一つの計画のもとに建設されたわけではない。地形、予算、政治、地域事情といった複数の要因の中で、結果として遠軽に路線が集まったのである。

遠軽駅名物の平地スイッチバックは名寄本線の名残

遠軽駅でスイッチバックする石北本線の線路(2016年撮影)

遠軽駅と言えば、スイッチバックを思い浮かべる人も多いだろう。鉄道に詳しくない人からすると「なんで方向転換するの?」と不思議に思える構造だ。遠軽駅では列車が一度駅に入り、進行方向を逆にして次の駅へと走り出す。

スイッチバックは急勾配を上るために山岳地帯の鉄道に採用されることが多い仕組み。しかし、遠軽駅のスイッチバックは地形の問題で生まれたわけではなく、全国でも珍しい「平地スイッチバック」となっている。それは、かつて遠軽駅が「名寄本線」という別ルートの起点だったことを理由とする。

名寄本線は1989年に廃止されたが、2025年現在としては「本線」を名乗るJR線で唯一全線が廃止となった路線でもある。名寄本線は名寄からオホーツク沿岸を経て遠軽へと至る路線で、石北本線が開通する前は、旭川から遠軽や北見、網走方面へと向かう主要ルートであった。

平地にも関わらずスイッチバックが採用されたのは、後から作られた石北本線を無理なく接続するためである。名寄本線が廃止された今も、遠軽駅の線路配置はその記憶を静かに伝えてくれる。

遠軽という街が見せる静かな旅の風景

近隣のオホーツク海やサロマ湖が育んだ新鮮な海産物を食べられるのも魅力

遠軽を鉄道で素通りする旅人の多くは、次の列車の時刻だけを気にしてホームに佇む。

だけど、ほんの少し勇気を出して改札を抜ければ、この街は思っていたよりも深く、静かで、豊かな表情を見せてくれる。鉄道がつくった街の骨格の上に、地形と季節がゆっくりと風景を重ねてきた。

せっかく長い旅路を経てここまで来たのなら、街を散策したり、一泊して夜の静けさに身を置いてみてほしい。ホームに立つだけでは気づけない、この土地ならではの深い魅力が姿を現してくれる。

瞰望岩が語る街の原点

頂上は無料の展望台として(夏場は)気軽に訪れることができる

遠軽の中心にそびえる瞰望岩(がんぼういわ)は、この街の象徴であり、鉄道で遠軽に近づく旅人が最初に出会う“街の顔”でもある。

地上約78メートルの岩壁は、鉄道が来る前からここに立ち続け、遠軽という土地を体現してきた存在だ。岩の上から見下ろす街並みには、地形が先にあり、そこへ人が寄り添い、やがて鉄道が線を引いたという、この土地の歴史の順序がそのまま刻まれている。

丘に咲くコスモスと現在進行形の物語

コスモス園は街の大きなイベントが開かれる文化の発信地でもある

太陽の丘えんがる公園のコスモス園は、遠軽が自然とともに生きる街であることを静かに示している。10ヘクタールの斜面に広がる1,000万本のコスモスは、風に揺れるたびに丘全体を色彩の波に変える。鉄道が街をつくり、街が人を呼び、そして人が花を植え、また新しい風景が生まれていく。

道の駅がつなぐ遠軽の“今”

新しい観光名所として取り上げられることが多い道の駅

道の駅「森のオホーツク」は、鉄道とは別のリズムで旅人を迎える。車で訪れた人々がエンジンを止めると、スキー場から吹き下ろす風が静かに流れ込み、遠軽の“今”の空気を運んでくる。オホーツクの自然と人の暮らしが混ざり合い、鉄道とは違う角度からこの街の輪郭を見せてくれる。

木材が語る遠軽の文化と記憶

ちゃちゃワールドは遠軽駅から20分ほどの生田原駅の近くにある

遠軽の観光は「木」という素材を通しても語られる。木楽館では木工品が展示され、ちゃちゃワールドには世界各地の木のおもちゃが並ぶ。木材加工はこの土地の産業であり、文化であり、記憶でもある。木に触れることは、遠軽の時間に触れることでもあり、開拓の時代から続く“森との共生”を静かに思い起こさせる。

“鉄道ファン”に寄り添う遠軽町のお勧めホテル

鉄道の歴史と共に歩んできた街だけあって、駅の周辺に地元のホテルが点在している。

客室にもよるが窓から鉄道のある風景を眺めることができたり、きっと“撮り鉄”の鉄道ファンに寄り添ってくれることであろう。

遠軽駅すぐの「タカハシイン」

駅を出て最初の大きい通り「岩見通り」を左に曲がってすぐの所にある。遠軽中心部では大きいホテルで、都市部のビジネスホテルと同じような感覚で利用できるのは、初めてこの地に宿泊する人には安心ポイントとなるだろう。

生田原駅すぐの「ノースキング」

同じ遠軽町内で遠軽駅から普通列車や快速列車で約20分のところにあるのが生田原駅。宿泊者は無料で利用できる温泉もあり、レストランや休憩コーナーなども充実しているホテル。日帰り入浴も利用できる。

一本の列車を見送るだけで始まる“本当の旅”

遠軽駅は「ただの乗換駅」として通過するのは勿体ない駅である

遠軽は“通過する街”ではなく、“降りて歩くべき街”だ。

次の列車を一本見送るだけで、旅の速度はゆっくりと変わり、街の時間があなたの旅に溶け込んでいく。瞰望岩の影、コスモスの丘、森の静寂。どれも急ぎ足では見えない風景だ。遠軽は、旅人が立ち止まることで初めて本当の姿を現すだろう。

コネタ

【CDジャケ買い枠】The Unemployed 「Fuck Work」見かけのインパクト対して案外フツー

毎年1回、意味もなく“知らない変わったバンドのCDをジャケット買いする”という謎の儀式を続けている。

今年、その祭壇に捧げられたのが、The Unemployed(失業者) の「Fuck Work(仕事なんてクソくらえ)」というアルバムだ。

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思ったより普通のパワーポップ

ジャケットのじわじわと来る雰囲気、バンド名の投げやり感、アルバム名の虚無感。どれを取っても「これは絶対に社会風刺の塊だろう!」という期待しかなかった。

ところが、蓋を開けてみるとどうだろう。思ったより普通。いや、悪くはない。悪くはないんだけど……うーん、物足りない。

もっと社会批判的で、もっと皮肉で、もっと「世の中をぶっ壊すぞ」みたいな狂気を期待していたのに、実際は、恋愛の泥沼、自己嫌悪といった、個人の感情にフォーカスした曲が中心だった。

洋楽っぽいけど日本だけで出ている謎のアルバム

今回のアルバムを聴いてまず思ったのは、「そもそもこのアーティストは何者なんだ?」という根本的な疑問だった。

アーティスト名は「The Unemployed」で、曲調は英語歌詞の洋楽パワーポップ。歌詞の世界観はアメリカンな恋愛と自虐の世界が中心のようだ。

調べてみると、シカゴの片田舎で地下室に籠って曲作りをしているアメリカ人の宅録アーティストらしい。しかも、“いまんとこ”日本だけでリリースされた企画アルバムというが、なんとも奇妙な経歴のアルバムだ。

公式プロフィール

Powerpop Academyの紹介文によると、The Unemployed の正体は、“パワーポップ界、期待のニート”とされるブライアン・ブロスコ君。

PC & モバイル

なぜインスタは居心地が悪いのか? アラフォー男性が息苦しさを覚える“女子会SNS”の文化圏

Instagram(インスタ)を開くたびにアラフォー男性が感じる、あの“場違い感”を知っているだろうか?

アラフォー男性にとってインスタは、まるで女子会のテーブルに突然座らされたような空気が漂う場所である。

価値観もテンションも前提条件も、アラフォー男性のそれとはまるで違う。さらに別の部屋では、TikTokという10代限定の動画投稿SNSが全力で開催されていて、そちらはそもそも入場資格すらない。

これらのSNSは誰でも自由に使えるはずなのに、なぜこんなにも“文化の壁”を感じるのか。その違和感の正体を探っていく。

インスタは若い女性が文化の中心

インスタの利用者は10代〜30代が中心で、特に10代や20代の若い女性の比率が高い。アラフォー男性が皆無というわけではないが、文化の中心にはいない。弁当で言えば漬物みたいなもので、メインとなる存在ではないのだ。

誤解を恐れずに言えば、アラフォー男性なのにインスタで頑張っている人は、けっこう無理をしているのではないかと思う。

つまり、インスタは若い女性を中心とする文化圏であり、アラフォー男性がそこに足を踏み入れると「なんか違う場所に来てしまったな」という空気が漂う。タイムラインに流れる価値観もテンションも、アラフォー男性の生活文脈とは別物だ。

タイムラインが“女子会そのもの”に思える理由

カフェ巡り、美容、自分磨き、今日のコーデ、丁寧な暮らし。

これらは悪くはないが、アラフォー男性にとっては“自分の世界”とは別物だ。インスタ全体が知らない女子会のテーブルに突然同席させられたような空気を帯びている。会話のノリも、盛り上がるポイントも、投稿の文脈も、すべてが違う。その場違い感が居心地の悪さとして昇華していくのである。

特に厄介なのは、インスタのタイムラインが“女子会の空気”をただ反映しているのではなく、それを強化し続ける装置になっている点である。写真が主役で、言葉は添え物。意味よりも雰囲気が優先され、内容よりも“かわいさ”や“映え”が評価される。アラフォー男性がつい探してしまう“情報性”や“文脈”は、そもそもインスタでは重要視されていない。

コメント欄も女子会的。「かわいい!」「素敵!」「最高!」といった肯定の応酬がデフォルトだ。批判やツッコミは空気を壊す行為としてタブーとされる。全員が同じテンションで盛り上がることが前提になっているのだ。

インスタでは“盛られた日常”が延々と続く

インスタでは投稿の前提となる価値観が、若い女性の文化圏に寄っている。

カフェ巡りは一つの趣味として成立し、美容は投資であり、丁寧な暮らしは尊い行為で、自分磨きは人生の必須科目とされる。これらはインスタの文化圏の中では自然だが、アラフォー男性にとっては「そこまで重要なのか?」と感じるテーマでもある。

これらのテーマをベースとして、さらに“盛られた日常”が加わる。加工された顔、整いすぎた部屋、過剰にポジティブな日常、どこかで見たような“丁寧な暮らし”などだ。

女子会では日常を盛って話すことは多いが、アラフォー男性は「そんなに毎日キラキラしてないだろ」と突っ込みたくなるものの、その突っ込み自体が文化の外側からの反応である。

“内輪の盛り上がり”に部外者は入り込めない

インスタはフォロワー同士の“内輪の盛り上がり”が強いSNSだ。

部外者は文脈に入り込めない。女子会の会話が内輪で完結するのと同じで、インスタのタイムラインも“わかる人だけわかればいい”という空気で動いている。

アラフォー男性は、その輪の外側に立たされている感覚を覚え、居心地の悪さが積み重なっていく。こうしてインスタのタイムラインは、アラフォー男性にとって“女子会そのもの”として目に映る。暮らしている文化圏の違いが、そのまま違和感として可視化されるのだ。

ハッシュタグ文化は“女子会の洗礼”

インスタのハッシュタグ文化は、単なる検索機能ではなく、まるで女子会の席で自分の属性を名乗り合う儀式のように機能している。

投稿に添えてずらりと並ぶ、

#カフェ巡り
#丁寧な暮らし
#今日のコーデ
#美容好きさんと繋がりたい
#自分磨き
#推し活記録
#カフェスタグラム
#おしゃれさんと繋がりたい
#暮らしを楽しむ
#大人可愛い
#透明感メイク
#ゆるふわヘア
#カフェ時間
#休日の過ごし方
#日常に癒しを

などのキラキラなハッシュタグたちは、情報というよりは、もはや自己紹介の延長であり、「私はこの属性の人間です」という宣言でもある。

写真だけでは伝わらない“自分の属性”をハッシュタグで表現し、同じ属性の人たちに向けて「ここにいるよ」と手を振る。インスタのタイムラインは、こうした“属性の名乗り合い”によって区画整理されていく。若い女性にとっても、このタグ付け文化は便利であると同時に、どこか息苦しさを伴う。タグをつけることでコミュニティに参加できる一方で、つけないと“文脈の外側”に置かれるような気がする。

さらに、タグは“盛られた日常”を補強する役割も果たす。「#丁寧な暮らし」と書けば、多少散らかった部屋でも丁寧に見える。「#自分磨き」と添えれば、ただの休日の買い物も意識の高い行動に変わる。「#カフェ時間」とつければ、ただの休憩がライフスタイルへと昇格する。タグは現実を美化し、投稿者の理想の自分を演出するための魔法の言葉なのだ。

しかし、その魔法を使い続けることは、魔法を切らした時の自分を見せられなくなるということでもある。タグをつけるたびに、自分の属性を整え、理想の自分を更新し続ける。自由なはずのSNSが、いつの間にか“属性”で人を分類し、そこに収まることを期待させるからだ。

つまり、インスタのハッシュタグとは、女子会の空気を可視化した存在である。

自治体のインスタ投稿コンテストですら女子会のノリ

各地の自治体が地域活性化の一環として、インスタで写真コンテストやショート動画コンテストを開催するケースが増えている。

ところが、その応募作品を眺めていると、驚くほどインスタ的な“女子会の空気”が支配していることに気づく。地域の魅力を伝えるはずの企画なのに、実際に並ぶのは「カフェのラテアート」「夕暮れの川辺で撮った自撮り」「友達と並んで撮った後ろ姿」「丁寧な暮らし風の雑貨写真」といった、インスタのテンプレートをそのまま持ち込んだような作品ばかりだ。

自治体が求めているのは“地域の魅力”のはずなのに、応募者が提出しているのは“自分の映え”であり、そこには地域よりも自己演出が優先されている。つまり、公共の場で行われるコンテストですら、インスタ的な女子会文化に飲み込まれてしまっているのだ。

アラフォー男性がこの光景に違和感を覚えるのは当然で、地域の風景や歴史、生活のリアリティを切り取るはずの場が、なぜか「#かわいい」「#おしゃれ」「#映える」というようなハッシュタグに占領されているのだ。

応募作品の多くは、地域の魅力を伝えるというより、インスタのタイムラインに投稿するための写真をそのまま横流ししたようなもの。自治体側もそれを「若い女性に支持されている」と歓迎してしまうため、結果的にコンテスト全体が女子会のような空気になっていることが多い。

ショート動画部門はさらに女子会化が進む

ショート動画部門になると女子会化の傾向はもっと顕著だ。

地域紹介動画のはずなのに、実際に投稿されるのは「カフェ巡りのついでに撮った動画を繋げたもの」「推し活のついでに撮った風景」「加工フィルターで色味を盛りまくった散歩動画」など、もはや地域紹介なのか趣味紹介なのか判別がつかない。

自治体の公式アカウントが女子会の延長のような動画を“優秀作品”として入賞させている光景は、アラフォー男性にとっては軽い眩暈すら覚える。本来、地域の魅力を伝えるはずの公共コンテストが、インスタ特有の“かわいい至上主義”に完全に飲み込まれてしまっているからだ。

アラフォー男性が感じる違和感は、単なるジェネレーションギャップではなく、公共空間までもが女子会文化に侵食されていることへの危機感でもある。

インスタが“女子会”ならTikTokは“学芸会”

インスタが女子会だとすれば、TikTokは“学芸会”に近いと言える。

インスタはまだ、隣の席に座って空気を読むことさえできれば、ギリギリなんとか参加できる余地がある。しかし、TikTokは体育館のステージで10代が全力で踊り、叫び、はしゃぎ、意味の分からないミームを連発している世界で、アラフォー男性はその体育館の中に入ることはできない。テンションもスピードも言語も違いすぎて、理解しようとすること自体が無理である。

TikTokの動画は、10代にとっては母語のように自然なテンポでも、アラフォー男性にとっては異国語の早口スピーチを聞かされているようなものだ。しかも、その世界では勢いが優先され、完成度よりも“ノリ”が評価される。まさに学芸会の空気そのものだ。

インスタもTikTokも、どちらも部外者には入り込みづらいが、TikTokのほうが圧倒的に敷居が高い。インスタはまだ「場違いだな」と感じながらも眺めていられるが、TikTokは「これはもう自分の文化圏ではない」とはっきり断言することができる。

インスタの女子会的空気に居心地の悪さを覚えるのは自然なことだが、TikTokの学芸会的テンションに圧倒されるのは、もはや避けようのない“文化圏の断絶”だ。インスタやTikTokは、誰でも自由に使えるSNSのはずなのに、実際にはそれぞれがユーザーを限定した個別の文化圏を形成していると言える。

インスタは若者にとっても“最悪のSNS”という現実

イギリスの王立公衆衛生協会(RSPH)が14〜24歳の若者を対象に行った調査では、インスタは若者のメンタルヘルスに最も悪影響を与えるSNSとして評価された。理由は明確で、インスタが提供する“キラキラした世界”が、若者の自己肯定感を容赦なく削っていくからだ。

タイムラインには、加工された顔、整いすぎた部屋、完璧に盛られた日常、意識の高いライフスタイルが延々と流れ続ける。若者はそれを見て「自分は足りていない」と感じ、比較のループに陥る。BBCの記事でも、孤独感や自己評価の低下を引き起こすと指摘されている。

つまり、インスタはアラフォー男性にとっての“女子会のSNS版”というだけでなく、若者にとっても“自己否定の装置”として機能してしまう。SNSは自由なはずなのに、インスタは「理想の自分を演じ続ける義務」を静かに課してくる。若者はその義務に疲れるが、簡単にやめることはできない。インスタは若者にとっても“最悪のSNS”と評価されるだけの理由を持っている。

SNS利用は結局“運営元のビジネスの手先”になること

インスタにしろ、noteにしろ、Yahoo!知恵袋にしろ、そしてLINEに至るまで、ユーザーは「自由に使っているつもり」であっても、実際には運営元のビジネスモデルを支えるための“無償の労働力”として組み込まれている。

インスタはユーザーが投稿すればするほど広告媒体としての価値が上がり、noteは書き手が増えれば増えるほど手数料収入が増え、知恵袋は悩みを吐き出すほど検索流入が増えてYahoo!の利益に貢献することとなる。

LINEも例外ではなく、日常会話やスタンプのやり取り、公式アカウントの通知、友だち追加の導線のすべてがユーザーの行動データを収集し、企業向け広告や販促の最適化に使われている。ユーザーはただ友達と連絡しているだけのつもりでも、その裏側では膨大なデータが抽出され、ビジネスとして消費されていく。

SNSは「誰でも使える自由な場所」の顔をしているが、実態は運営元の利益のために最適化された巨大な装置である。ユーザーはその装置を回す歯車にすぎない。承認欲求や便利さという“報酬”を与えられることで、自分が働かされていることに気づかないまま、今日もせっせと投稿し、反応し、データを提供し続けてしまうのだ。

結論 SNS固有の文化に無理に馴染む必要はない

インスタは女子会、TikTokは学芸会。どちらも部外者には入り込みづらいが、その“入りづらさ”は誰かが悪いわけではなく、ただ文化圏が違うというだけだ。

SNSは誰でも自由に使えるように見えても、実際にはそれぞれが独自の価値観とテンションで閉ざされた世界を作っている。そこに違和感を覚えるのは、あなたが時代遅れだからでも、適応力が足りないからでもない。単に、あなたの感性がその文化圏とは別のリズムであるというだけだ。

そして、そのリズムのズレは悲観すべきものではなく、むしろ希望の証でもある。SNSの外側には、あなたのペースで呼吸できる場所がいくらでもある。誰かの“盛られた日常”に合わせて自分を作り替える必要はないし、無理にアゲアゲのテンションを演出する必要もない。文化圏が違うと気づけたということは、自分の居場所を選び直す自由を手に入れたということだ。

SNSは世界のすべてではない。あなたの世界は、もっと広くて、もっと静かで、あなた自身のリズムというものがある。SNSに馴染めない自分を責める必要はない。それは“自分のを取り戻す”という前向きな選択だからだ。あなたはあなたのままで、ちゃんと生きていける。