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ワーケーションという“働きながら旅をする”という幻想

コロナ以降、ワーケーションという言葉が持ち上げられて久しい。仕事と休暇を両立する、働きながら旅をする、そんな“新しい働き方”として語られるが、その実態は理想とは程遠い。

手頃な価格で滞在できる安いホテルの排水は悪く、ネット環境は不安定で、室温の調整が難しく、机も椅子も仕事向きではない。そんな環境で「快適に働ける」と信じるのはあまりにも安易だ。そして何より、せっかくの観光地にいながら、朝から晩まで仕事のことを考えるという矛盾。

ワーケーションは、旅の本質を見失ったまま生まれた幻想にすぎない。

安ホテルの現実を知らないワーケーション

ワーケーションを語る人々は、海が見えるホテルで仕事をし、仕事が終わればオシャレな路地を散策し、話題の店で地元の料理を楽しむという理想的な光景を思い描く。

しかし、現実の安ホテルは排水が悪く、下水の悪臭が部屋まで漂ってくるうえ、WiFiは途切れがち。机は狭く、椅子は腰を痛めるレベルだ。隣室からの音が響きわたり、集中できる環境とは程遠い。こうした現実を無視して「旅先で働く」という理想だけを語るのは、旅も仕事も軽く扱っている証拠である。

観光地にいながらホテルに閉じこもる矛盾

ワーケーション最大の矛盾は、観光地にいながらロクに観光できないという点にある。

朝から仕事をし、休憩時間もメールを確認し、夕方になってようやく外に出ても、店は閉まりかけている。結局、旅先にいるのにやっていることは自宅やオフィスと変わらず、むしろ慣れない環境のせいでストレスは増えるばかりだ。

観光地にいながら観光できないという矛盾は、ワーケーションという概念そのものの欠陥を象徴している。

旅とは日常から離れることである

旅の本質は、日常から離れ、環境を変え、心を解放することにある。

しかし、ワーケーションはその本質を真っ向から否定する。仕事を持ち込み、メールに追われ、締め切りに追われ、頭の中は常に仕事モード。場所だけ変えても、心は何も変わらない。これでは旅ではなく、ただの“場所を変えた労働”でしかない。旅の価値を奪い、仕事の質も下げる中途半端な行為がワーケーションなのだ。

ワーケーションは企業側の都合で生まれた概念

ワーケーションという言葉の裏には、企業側の都合が透けて見える。

有給を使わせずに休暇気分を与えたり、企業側は何も負担せずに従業員の満足度を上げられる。こうした“旅先でまで働かせるための仕組み”がワーケーションという言葉の裏側に潜んでいる。旅をしながら働くのではなく、働かせながら旅をさせるという構造は、どこか歪んでいる。

旅を仕事に侵食させると旅は旅ではなくなる

ワーケーションは旅と仕事を両立させるどころか、どちらの価値も損なってしまう。

安ホテルの薄い壁と詰まった排水溝、さらに遅いWiFiに悩まされ、観光地にいながら観光できず、仕事に追われながら旅をしている気分だけ味わう。

そんな中途半端な働き方がワーケーションである。旅は旅として、仕事は仕事として切り分けるべきだ。ワーケーションという言葉に惑わされず、旅の本来の意味を取り戻すことこそ、今の時代に必要なのかもしれない。

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LCCが教えてくれた旅の荷物は7Kg以内が正解という真実

旅慣れたつもりでいても、時々“初心”を忘れる瞬間がある。

この間、LCCより安かったからとJALに乗った。LCCなら当然のように7Kg以内に収めていた荷物を「どうせJALだし大丈夫だろう」と油断して増やした結果、旅の間ずっと重さと嵩張りに苦しむ羽目になった。

そのとき気づいたのは、荷物の制限が緩いほど、旅は不自由になるという皮肉な真実だった。

LCCの7Kg制限は“旅の哲学”だった

LCCの7Kg制限は、単なる料金制度のルールではない。旅人にとっては、むしろ“荷物を削ぎ落とす哲学”を教えてくれる存在だ。

7Kg以内に収めようとすると、本当に必要なものだけが残る。着替えは最小限、ガジェットも厳選、「念のため」の荷物はすべて消える。その結果として旅は軽くなる。 身体も、気持ちも、行動も軽くなる。7Kgというのは旅人を縛るものではなく、むしろ旅の自由を守るためのラインだった。

JALだからと油断した結果、旅が重くなった

JALに乗るとき、人はつい油断する。「預け荷物が無料だから」「多少重くても問題ないから」という理由でつい荷物を増やしてしまう。

しかし、飛行機に乗ってる間は快適でも、旅の本番はそこから先だ。街中の階段、駅の乗り換え、観光地の坂道、そのすべてで荷物の重さがのしかかる。

7Kgを超えた荷物は旅の自由を奪い、行動の選択肢を狭め、気力を削り取る。つまり、JALの余裕は旅人の油断を誘う罠でもあるのだ。

荷物が重いと旅の“偶然”が消えていく

旅の魅力は予定外の寄り道や、 ふと目に入った路地に吸い込まれるような偶然にある。

しかし、荷物が重いと、その偶然がすべて消える。「荷物があるから遠回りはやめよう」「階段があるから別の道にしよう」「荷物を置きに戻らないと動けない」という状況が重なり、旅は“荷物中心の行動”に変わってしまう。

7Kg以内の旅は、偶然を受け入れる余白を持っている。7Kgを超えた旅は、偶然を拒む旅になる。

旅の荷物は少ないほど自由

今回の旅で痛感したのはJALの余裕よりLCCの7Kg制限のほうが、旅人にとってはるかに正しいということだった。荷物が軽ければ、旅は自由になる。荷物が重ければ、旅は荷物に支配される。

旅の荷物は7Kg以内が正解という事実に、もう一度立ち返るべきなのだ。

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なぜ沖縄はつまらない島になったのか? 何度も沖縄に旅したからこそ思う沖縄観光の現状

沖縄の最大にして唯一の観光資源は海ではないかという疑惑

この20年間、何十回と沖縄を旅してきた。だが、近年「沖縄はつまらない島」だと感じることが多くなった。

昨年末には滞在予定期間を短縮して帰ってきたほどで、今年も旅費に見合うほどの新たな発見や楽しさは沖縄にはなかった。これは単なる飽きではなく、沖縄という場所の変わらない自然環境と、上がり続ける物価、改善されない交通事情、そして観光客に開かれない閉ざされた文化によって、かつて輝いていたように思えた魅力が薄らいでしまったからだ。

沖縄の季節感のなさが旅の感覚を鈍らせる

冬には流氷がやってくる北海道のオホーツク海

沖縄は一年を通して気温が安定している。常夏ではないから、一応、冬らしきものはあるものの、12月でも半袖短パンで歩けるほど暖かい。

初めて訪れる人には南国らしさとして魅力的に映る。しかし、何度も訪れるとその変わらなさが退屈さへと変わっていく。12月の那覇空港に降り立った瞬間に感じる暖かい太陽は、初めの頃は感動を呼ぶ。しかし、何十回ともなると「同じだな」という感想しか湧かない。

北海道のように季節によって劇的に景色や気候が変わることはなく、どの時期に来ても同じような旅が繰り返される。

物価上昇が“気軽な沖縄”を過去のものにした

外食はどこもかしも値上げ、値上げ、値上げ

沖縄の最低賃金は20年前には600円程度だったが、今では首都圏と大差ない水準にまで上昇した。

地元生活者の賃金が上がるのは良いことに思えるが、企業からすると人件費が上がるわけであり、連動して物価が上昇する。特にアルバイトやパートを多く雇うような外食産業やサービス業においては顕著に価格が跳ね上がる。

もちろん、その影響は観光客にも直撃する。外食は軒並み高くなり、沖縄料理を気軽に食べることが難しくなった。20年前は1000円弱だったはずのJimmy’sのランチバイキングは、今では2200円にまで上がった。

地元スーパー「かねひで」のチキンドラムは1本300円以上に値上がりし、沖縄を象徴する安い飲み物だったA&Wのルートビアは48円で買えたのが今は150円もする。観光施設も値上げが続き、「こどもの国」は大人500円から1,000円にまで値上げした。

かつての「安くて楽しい沖縄」は、今や「本土より金がかかる沖縄」へと変貌し、旅が財布に縛られるようになった。

沖縄の観光体験は“初回の感動”で止まる

今も昔も気軽に行ける距離ではない美ら海水族館

沖縄には確かに美しい海がある。初めて訪れた人なら、その青さだけで旅の満足度が一気に跳ね上がるほどだ。空港を出たらすぐに広がる南国の空気、リゾートホテルの白い壁、そして水平線まで続く海のグラデーション。これらは初回の旅人にとって、非日常の象徴として強烈に記憶に残る。

しかし、問題はそこから先だ。海以外の文化的な魅力が観光客に対して十分に開かれていない。むしろ、海という圧倒的な観光資源に依存しすぎた結果、その他の観光体験が“美しい海の感動”を超えてこない構造になっている。

例えば、沖縄の伝統的な祭りや地域イベントは、観光客が気軽に入り込める雰囲気ではない。地元のコミュニティが強固であるがゆえに、外から来た人間はどこか“見学者”のまま止まってしまう。文化は確かにそこにあるのに、観光客が触れられる距離まで降りてこない。

美ら海水族館もその典型だ。巨大なジンベエザメが泳ぐ水槽は圧巻だが、那覇から片道2時間もかかるアクセスの悪さがネックとなり、「一度行けば十分」という印象で終わってしまう。リピーターにとっては、再訪したい気持ちよりも移動の面倒臭さが重くのしかかる。

泡盛も同じだ。銘柄は豊富で酒造所も多いが、冷静に飲み比べるとクセが強く、万人向けとは言い難い。地元の若者でさえ、ウイスキーやチューハイに流れているという話をよく聞く。試飲コーナーで飲み比べても、味の幅が広いわけではなく、「試飲で一度飲めば十分」という印象で終わってしまう。

沖縄料理も旅の高揚感がなければ“普通の家庭料理”でしかない。ゴーヤーチャンプルーなどのチャンプルー料理は確かに独創的で美味しいが、味の方向性はどれも似ており、二度三度と食べるうちに新鮮味が薄れていく。初回は「沖縄らしさ」として楽しめるが、リピーターになるほど「同じ味」に感じられやすい。

若者に媚びて“映え”に特化したDMMかりゆし水族館

生き物は添え物扱いなDMMかりゆし水族館

沖縄に近年登場した新しい観光施設は、若者向けやインスタ映えに特化しているのが特徴だ。

フォトスポット、VR空間、カラフルなオブジェ、SNS映えを狙ったカフェ。自撮りをするには都合が良いが、体験としての深みは浅く、滞在時間は短い。旅の記憶に残るというより、スマホのカメラロールにだけ残る場所が多い。

美ら海水族館は遠すぎる観光地であるが、那覇近郊に誕生した新しい水族館が「DMMかりゆし水族館」だ。展示の解説はスマホで読み、館内は暗く、映像演出が中心。若者が好む“デジタル映え”を全面に押し出した、いわばスマホ時代の水族館だ。

だが、この新しさは必ずしも観光体験の質を高めているわけではない。クチコミを見ても悪い評価の多くが同じ方向を指している。「展示が少ない」「水槽が小さい」「値段に見合わない」「写真映え以外の魅力が薄い」などの声が投稿されている。要するに、体験の中心がスマホで撮ることに寄りすぎていて、水族館としての本質的な魅力がないのだ。

実際、館内は映像演出が多く、魚そのものをじっくり観察するというより、光と音の演出を背景に写真を撮ることが主目的になりがち。展示の説明もスマホで読む形式のため、画面を見ている時間が長く、目の前の生き物との距離が縮まらない。水族館というより、デジタルアート空間に魚が添えられているような印象すらある。美ら海水族館のように巨大な水槽の前で時間を忘れるような没入感はなく、どこか“消費されるための水族館”という印象が残る。

美ら海水族館は“遠すぎる”という問題を抱えているが、こちらは“軽すぎる”という別の問題を抱えているのだ。

観光客が不便を覚える生活インフラ

安さがウリだったはずのスーパー「ユニオン」ですら高い

DMMかりゆし水族館のような“映え”に偏った観光開発の一方で、沖縄の生活インフラの不便さは観光客にも影響を与えている。

例えば、地元スーパーのユニオンでは、未だに現金か独自の電子マネー「ユニカード」しか使えず、クレジットカードや交通系ICカード、QR決済のいずれも使えない。観光客が移動の合間にふらっと立ち寄って飲み物や惣菜を買おうとしても、財布に現金がなければレジで立ち尽くすことになる。

このような地元仕様のインフラは、観光地としての成熟とは逆方向に働いている。観光客が求めるのは、滞在中の快適さやスムーズな消費体験でもある。沖縄はその点で、まだ地元の論理を優先しており、キャッシュレス生活が当たり前で、現金を持ち歩かない主義の島外から来た人間にとっては不便が目立つ。

こうして見ると、沖縄は初めて来た観光客には強いが、二度目以降の人には弱い観光地になってしまった。旅の感動が一巡したあとに残るのは、交通整備の悪さ、文化の閉じ方、そして生活インフラの不便さ。地元の構造的な停滞が旅人に与える印象を悪くする。

国際通りは“修学旅行の自撮り背景”になった

コロナで“シャッター通り”だった国際通りも今は修学旅行生が目立つ

国際通りを歩いていると、修学旅行生がスマホを掲げて自撮りに夢中になっている光景をよく目にする。彼らは楽しそうだし、青春の一ページとしては微笑ましい。しかし、その風景を少し距離を置いて眺めると、国際通りという場所が“観光地としての役割”をどこか手放してしまったことが見えてくる。

修学旅行生たちが撮っているのは、沖縄の文化でも歴史でもなく、ただ「沖縄に来た」という証拠写真だ。背景に映るのは、土産物店やチェーン店ばかり。かつては地元の商店が並び、沖縄らしい匂いや音が漂っていた通りも、今では“どこにでもある観光地の商店街”になってしまった。

修学旅行生の自撮りは象徴的だ。彼らは国際通りを“体験”しているのではなく、“通過”している。国際通りは旅の記憶を深める場所ではなく、SNSに載せる青春の背景として機能しているのだ。

公共交通は未来永劫、改善されないまま

道路を作る金はあっても鉄道を作る金はないのが沖縄

公共交通機関は不便なまま改善されない。バスは遅れやすく、路線は複雑で、料金も高く、観光客が気軽に乗るのは難しい。

那覇空港と那覇市内などを結ぶ「ゆいレール」は、一部の車両が2両編成から3両編成になったものの、2本~3本待たないと乗れないほどの混雑のこともある。相変わらず、通勤時間帯のラッシュは首都圏以上だ。ゆいレールは通勤だけでなく、空港アクセス路線でもあるため、観光客の大きなキャリーバッグなどの荷物が車内を占領する場合もある。

世界の常識ではモノレールは“遊園地の乗り物”という認識だが、モノレールではない一般の鉄道路線の1つでも作ってくれればいいものの、国から助成金が出る自動車用の道路工事は年がら年中やっているが、鉄道関係についての助成金はないらしく、沖縄に鉄道建設の話が出てくることはない。

九州や北海道、本州などでは別にいらないように思う昭和時代に構想された新幹線やリニアが建設中なのに、沖縄には新しい鉄道路線ができる気配はない。

旅の“新発見”が消えた島

かつて、沖縄は何度でも訪れたい魅力あふれる島だった。

しかし、今では何度も訪れたからこそ、沖縄という観光地の限界が見えてしまった。季節感のなさ、物価の上昇、交通の不便さ、地元中心の文化構造、映えに特化した観光施設。それらが積み重なり、リピーターの旅人にとって、沖縄は海しかない金のかかる島になってしまった。

観光地として再び輝くためには、旅人の視点に立った再設計が必要だろう。