コネタ

病気と健康

「逆流性食道炎は一生治らない」は大嘘であり医療ビジネスの構造と矛盾の産物である理由

画像は洋食のオムレツとかのセット

「逆流性食道炎は治らない」「一生付き合うしかない」といった言葉を耳にしたことはないだろうか。

しかし、私はそのどちらににも当てはまらなかった。なぜなら、私は通院を適当なタイミングでやめても自然に時間経過により症状が消えた。自分の体験そのものが、“治らない”という言説がいかに誤解に満ちているかを示している。

医療は人を救うための仕組みであるはずなのに、実際に患者として向き合うと、そこには説明の不一致や不透明な判断が驚くほど多い。同じ症状でも医者によって処方が違い、不要な薬を飲まされそうになったり、逆に「意味がない」と切り捨てられたりする。

精神医療のように形が見えない領域では、診断の揺らぎがさらに大きくなる。医療そのものではなく、医療を取り巻く制度や経済構造が、患者の不安を増幅させている。本稿では、実体験と世の中に散らばる事例をもとに、医療の“見えにくい嘘”を読み解いていく。

治療しなくても症状が消えたという事実

私が逆流性食道炎を発症したとき、胸焼けや喉の違和感が続き、食後の逆流感も強かった。

一般的には継続的な薬物治療が推奨されるが、私は適当なタイミングで治療をやめた。それでも数週間から数か月のうちに症状は自然と軽くなり、気づけば完全に消えていた。これは「逆流性食道炎は治らない」という言説と明らかに矛盾している。

少なくとも、私のケースでは治療なしで自然に治癒したという事実がある。

治らないと言われる病気の裏にある矛盾

「逆流性食道炎は治らない」と言い切る医者がいる。しかし、別の医者はまったく違う薬を出し、さらに別の医者は「その薬は意味がない」と断言する。

同じ症状なのに、医者によって処方が違いすぎる。患者は医学の専門家ではないため、どれが正しいのか判断できない。結果として「治らない」という言葉だけが独り歩きし、不安だけが増幅される。

ある医者は、別の医者には不要と断言される薬を飲み続けるように指示した。患者が振り回されているのは病気ではなく、実際には医者に振り回されているだけのことも少なくない。

自然回復力という当たり前がないがしろにされる理由

多くの病気は人間が自然に持っている回復力によって、時間経過により自然に治癒させることができる。しかし、医療の現場やメディアでは、この“自然回復力”がないがしろにされることが多い。

代わりに、医療機関では定期的に通院して薬を飲み続けることを薦められる。民間レベルにおいても、ムックは何の意味もない怪しいサプリや健康食品を薦め、姿勢が原因だと定期通院を薦めるボッタくり整骨院など、人の弱みに付け込んだ“商業的介入”が各所で行われる。詐欺的な商売が横行するのは、患者の不安がビジネスとして成立してしまうからだ。

自然回復力が強調されると商売にならない。こうした商業的な介入は、不安を商品化するビジネス構造が原因である。

親知らず抜歯に見る医療の仮面構造

親知らずの抜歯も、医療の不透明さを象徴する例だ。

ある歯医者や総合病院では、費用が多く取れる入院手術を勧められた。しかし、実際には駅前の普通の歯医者で10分もかからず抜歯できた。ネット上にも同じような事例は多い。大病院では全身麻酔を勧められたが、町の歯医者では局所麻酔で即日終了したり、高額なCT撮影を勧められたが別の医院では不要と言われたりする。

医療の質が違うのではなく、医療機関のビジネスの仕方が違うのだ。患者は医療機関のビジネスの都合に左右されてしまう。

形が見えない精神医療は説明の揺らぎがさらに大きい

身体の病気と違い、精神医療は“形が見えない”という特徴がある。検査で決定的な証拠が出るわけではなく、医師の判断が大きく影響する。

気分が優れない、眠れない、食欲が落ちた。こうした誰にでも起こりうる不調を伝えただけで、「鬱の可能性があります」「薬を飲みましょう」と勧められるケースもある。単に性格や個性だとしても、生まれつきの障害だと診断するケースもある。

これらの中には、もちろん本当に医療的な支援が必要な場合もあるだろう。しかし、診断の基準が一般人には不透明なのは間違いない。また、この曖昧さを逆手にとって、トラブルを抱えた職場に提出するための「診断書」の作成を患者が求める場合もある。

ネットに散らばる医療の矛盾という証言

ネット上には、医療の矛盾を示す体験談は無数にある。

整形外科で「一生治らない」と言われた腰痛が生活改善で自然に消えた例。皮膚科で高額な塗り薬を処方されたが、別の医者には「保湿だけで十分」と言われた例。花粉症の治療で、医者によって薬の量が倍以上違う例。手術が必要と言われた症状が、別の病院では経過観察で問題なしと判断された例など。数え出したらキリがない。

患者の医療の運用とビジネス構造を疑う必要があるだろう。

医療の中に潜む構造的な不透明さ

医療は人を救うための仕組みだ。しかし、現実には、医療機関ごとの方針やビジネス構造の違いが、患者の不安を増幅させる。

治らないと言われる病気、不要な薬、過剰な手術、医者ごとに違う説明。これらは医学の問題ではなく、医療の制度が抱える矛盾だ。医療の嘘を見抜くとは、医療を否定することではなく、医療の中に潜む構造的な不透明さを理解することなのだ。

旅モノ

全員で同じ場所へ行く「修学旅行」という団体行動主義の不自然な儀式

画像は小学校時代に酒も飲めないのに見学に行った男山酒造

修学旅行という行事には、どこか説明のつかない不自然さがある。

全国の学校が毎年ほぼ同じ観光地へ向かい、同じ寺を見て、同じ資料館に入り、同じ土産物屋で同じ菓子を買う。生徒たちは列を作り、旗を持った先生やガイドの後ろを歩き、決められた時間に決められた場所へ移動する。

その光景は旅行というより「団体行動に従順な大人」を育てるための予行演習のように見える。旅の本質が自由や偶然にあるのだとすれば、修学旅行はその真逆を行く儀式でしかない。

修学旅行は“旅”ではなく管理された移動

結論から言うと、修学旅行は旅ではない。

それは学校という制度をそのまま観光地に持ち込んだ“管理された移動”だ。京都の清水寺では、先生が「はい、ここで写真を撮ります」と指示し、生徒たちは同じ角度で同じ写真を撮る。広島の資料館では展示を読む時間もなく、ただ“来たことにする”ための通過儀礼が行われる。

沖縄の平和学習では、内容よりも「静かに聞くこと」が評価される。そこに旅の自由も、発見も、偶然も存在しない。あるのは「決められた行動を決められた通りにこなす」という訓練だけだ。

全国の学校が同じ観光地に向かう奇妙さ

私立の金持ちの子供が通うような学校を別にすれば、一般的な学校での修学旅行の行き先は驚くほど固定されている。

京都、奈良、広島、沖縄。理由は単純で、受け入れ体制が整っていて、教育的という名目が立ち、そして何より前例があるからだ。

京都のバス会社は修学旅行生を乗せることを前提に動き、奈良公園の鹿は生徒が差し出すせんべいに慣れ、沖縄のホテルは修学旅行プランを用意している。こうした“修学旅行産業”が出来上がっているため、学校はそこから外れる選択をほとんどしない。

つまり、修学旅行は「みんなが行っているから今年もそこに行く」という前例主義の象徴であり、旅の選択ではなく制度の惰性でしかない。

全員で同じ場所に行く不自然さ

修学旅行の最大の不自然さは、興味も関心も違う生徒たちが、全員で同じ場所に行く点にある。

歴史に興味がある生徒もいれば、自然に触れたい生徒もいる。美術館を歩きたい生徒もいれば、街の雑踏を楽しみたい生徒もいる。

行先と自分の趣味嗜好が合わないために、京都の三十三間堂で退屈そうに立ち尽くす生徒や、奈良の大仏の前で「とりあえず写真だけ撮ればいいんでしょ」と言う生徒がいる。その姿は、旅というより「集団を優先する訓練」である。

修学旅行は“高齢者団体ツアー”の予告篇

修学旅行の光景は、暇と金を持て余した高齢者の団体ツアーと驚くほど似ている。

旗を持った引率者の後ろを歩き、決められた時間に決められた店に入り、同じ写真を撮り、同じ土産を買う。違うのは年齢だけで、構造は同じだ。そして最も恐ろしいのは、修学旅行で刷り込まれた行動様式は、大人になってからも抜けないという点だ。

観光地で「とりあえずガイドブックの“定番スポット”を回ればいい」と思い込む人が多いのは、こうした“団体行動主義”が子供時代の修学旅行で刷り込まれたからでもある。修学旅行は旅の楽しさを教えるのではなく「自分で選ばないことに慣れさせる」 という形で、大人になってからの行動さえも静かに縛り続ける。

旅の本質は“自分で選ぶこと”である

旅の価値は、自分で選び、自分で歩き、自分で迷い、自分で発見するというプロセスにある。

しかし、修学旅行はそのすべてを奪い、決められた旅を強制する。その結果、大人になっても「自分で選ぶ旅」を味わえない人が多くなる。修学旅行は旅の名を借りた“団体行動の刷り込み装置”として、子どもたちに「自分で選ばないこと」に慣れさせてしまう。

全員で同じ場所へ行き、同じものを見て、同じ行動を取るという形式は、個性を育てるどころか、判断力と主体性を奪う訓練に近い。こうして育った人たちは、会社でも旅行でも「みんなと同じであること」を無意識に選び、違和感を覚えても声を上げず、集団の流れに身を委ねるようになる。

旅の本質を取り戻すためには、まずこの儀式の不自然さに気づき、集団行動を前提としない“自分で選ぶ旅”を取り戻す必要がある。

グルメ

なぜ東京で食べられる沖縄の魂なき“偽タコライス”はこうも嘘くさいのか?

東京にありがちな典型的なタコライスのイメージ

沖縄発祥のタコライスは、もともと米軍基地周辺で生まれた“庶民の味”だ。安く腹を満たすための料理であり、本来はチーズや野菜は必要な人だけが追加するオプション扱いである。

しかし、東京で食べられるタコライスの多くは、この素朴なはずの庶民の料理が突然“おしゃれフード”として変貌していることが多い。

沖縄のタコライスは生活の味である

東京では一番安い基本的なタコライスでもオプションは予め全部入りになっていて1,200円くらい、店によっては1,500円を超えるタコライスもある。

沖縄の現地で本物を食べたことのないオフィスワーカーやグルメ気取り相手に、雰囲気だけを高値で売りつける商売が横行しているのだ。これは単なる価格の問題ではなく、文化を知らないまま表層だけを転売するという、東京特有の“嘘臭さ”の象徴でもある。

東京のタコライスは“全部入りで高額”という謎進化

東京のタコライス業者は、なぜか最初から全部入りを前提にしている。

レタスもチーズもアボカドも温玉も、さらには謎のスパイスや謎のトッピングまで盛り込んで、気づけば1,500円を超える。店によっては、ひじきやキュウリの千切りが入っていたりと、もはやタコライスというより“タコライスを名乗る別料理”である。

沖縄の現地での食べ方や文化を知らない人ほど「タコライスとはこういうものだ」と誤解してしまう。誤解を与えたまま、偽物が本物の顔をして広がっていく。

本物を知らない人に“雰囲気だけ”を売る商売の構造

東京のタコライス業者が相手にしているのは、沖縄の現地で本物を食べたことのないオフィスワーカーがメインだ。

こうした偽タコライス店に短い昼休みを潰して足を運ぶ人々は「沖縄っぽい」「ヘルシーそう」「おしゃれ」「インスタ映えしそう」というイメージだけで注文し、料理そのものの背景には目を向けない。その結果、本物を知らない人に高値で偽物を売る構造が成立してしまう。これは文化の輸入ではなく、文化の“表層だけの転売”であり、東京の外食文化が抱える典型的な問題でもある。

タコライスを名乗るなら本質を理解してほしい

沖縄の吉野家で提供されているタコライス

タコライスの魅力は、豪華さではなく“必要最低限の美味しさ”にある。

盛りすぎず、飾らず、腹を満たすための料理。東京のタコライス業者が本当にタコライスをリスペクトするなら、価格を庶民的にし、トッピングをオプションに戻し、過剰な演出をやめ、沖縄の生活文化を理解する姿勢が必要だ。

料理は見た目や雰囲気だけではなく、背景にある文化をどう扱うかで本物か偽物かが決まる。