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X(旧Twitter)がオワコン化して“夜の無料案内所”になってしまった理由

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最近X(旧Twitter)を開くと、怪しい広告が延々と表示され、どこか夜の街のような空気を感じないだろうか。

もし、あなたが「もう開く気がしない」と思っているなら、それはあなたが特殊だからではない。むしろ、世間の大多数の人が同じ違和感を抱いている。

夜の無料案内所と化した旧Twitter

かつてXがTwitterと呼ばれていた時代は、誰もが安心して使える“国民的なインフラ”だった。ニュースも災害情報も日常の雑談も、すべてここで完結し、街の広場のように開かれた場所として機能していた。

しかし、現在のXはどうかというと、もはや外部アダルトサービスへの誘導がメインのオワコンSNS。アダルト動画のサンプルが大量に投稿され、夜の街にある“無料案内所”のような空気を感じる。案内所は課金ファンサイトへの誘導装置として機能しており、「続きはファンサイトで」という動線が当たり前になっている。

無料案内所に子供も企業も同居している

ところが、この繁華街の風俗ビルのような建物に、未だ中高生のアカウントや一般企業のアカウントが同居している。企業担当者の多くは、テナント構成の変化に気づかないまま、「記事更新しました」「新着ニュースを公開しました」といった、惰性の告知を淡々とポストし続けているのが現状。

つまり、無料案内所のモニターにアダルト動画のサンプルが流れ、横で一般企業がチラシを配り、その間を中高生が普通に歩いているというのが今のXの実態だ。この歪んだ同居状態こそ、多くの人が抱いている「Xはもう無理」という感覚の正体である。

Xは使われなくなり始めている

外から見ると、Xというビルは未だ巨大で立派に見える。ネットでの検索結果によれば、日本国内の月間アクティブユーザーは約6,600万人と依然として大きい。

しかし、SNS全体で見るとXの利用率は40%台前半にまで落ち込み、前年から5ポイント以上も減少している。この数字が示すのは、登録者は多いものの、Xを積極的に使う人は減ってきているということである。

ビルの1階にある案内所が派手に光っていても、上階のテナントは静かに抜け始めている。今のXは、まさにそんな状態だ。

買収で運営方針が夜仕様に変わった

ビルは管理会社の方針が変わると、テナントの雰囲気も変わる。Xも同じで、Twitterが買収されてからの運営方針は明らかに“夜の街の風俗ビル”となった。

Twitter時代はアカウント削除や凍結の対象となっていたアダルト投稿が公式に許可されたのである。管理会社が「夜の店もOKです」と言い始めた瞬間、ビル全体の空気は変わる。健全フロアは衰退し、夜の店が増えるのは当然の流れだ。

かつて健全だった公共広場は、いまや夜の街の風俗ビルのように生まれ変わった。中高生や自治体のアカウントが、まだ同じビルのテナントとして入居していることは異常に近い状態だ。

Xの構造は無料案内所と同じ仕組み

Xは夜の街の無料案内所と構造がよく似ている。

Xでよく見かけるのは、外部のファン課金サービスや、有料のアダルト動画プラットフォームへの誘導だ。これは「X=入口」「外部=本番の収益が発生する場所」という構造であり、無料案内所が広告を見せ、「サービスはこの先のビルで」と誘導する構造と同じである。

荒廃していくビルの中で失なわれるもの

案内所のビル上階に残された企業アカウントや中高生アカウント。彼らは、もはやここにいる理由を失いつつある。

Xの無料案内所化が進む中、企業アカウントは未だに「記事更新しました」「新製品のお知らせです」といった形式的な投稿を垂れ流し続けている。しかし、アダルト系の外部サービスへの誘導やサンプル動画が大量に流れる空間では、企業の“健全な告知”は完全に埋もれてしまう。

無料案内所の片隅で、誰も見ない健全なチラシを配り続けているような状態だ。

人々は新築ビル(代替SNS)へと移転している

夜のビルと化したXに限界を感じた人々は、すでに引っ越しを始めている。

日本ではXの代替SNSが静かに伸びてきていて、Blueskyは日本が世界最大の利用国であり、ThreadsはInstagramと連携した仕組みにより利用者が増えてきている。人々は用途に応じて“新築ビル”への引っ越しを進めている最中だ。

だが、それらの代替SNSは見た目こそは最新で、新時代だのトレンドだのと語られるが、実際に流れてくる投稿は「昭和の懐かし博物館か?」と思わせるものばかりだ。アーリーアダプタを気取った芸能人が、ハワイ旅行の写真を延々と投稿している光景は、その象徴と言えるだろう。

プラットフォームだけが最新化され、投稿文化はアップデートされないまま引き継がれている。その結果、空気の読みづらさと場違い感が混在し、ユーザーは「ここで何を共有すべきか」を掴めない。代替SNSの混沌は、技術の新しさと文化の古さが乖離したまま接続されていることを示しており、“逃避先として生まれたSNS”が抱える構造的な限界をそのまま露呈している。

Xは“無料案内所”としての役割に収束していく

かつてのXは明るい公共広場だった。しかし、1階に無料案内所が入った“夜の街の風俗ビル”として固定化しつつある。

アダルト投稿が公式に容認され、Xは外部アダルトサービスへの入り口となり、その中でも企業は惰性で告知を続け、中高生アカウントがその中に迷い込んでいる。Xは1階の案内所だけが賑わう場所となっていて、遠目から見るとXはまだ賑わっているように見えるが、その実態は無料案内所としての役割に収束している。

あなたがXにログインしなくなったのは自然な流れであり、世間の感覚と完全に一致していると言える。

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アジールが侵食される危機 -ソロキャンプが“映え文化”に呑み込まれつつある現在-

かつてキャンプとは、世の中から切り離された聖域だった。

ひとりで自然の中に身を置く時間には、特別な静けさがあった。そこでは世間の縛りや評価は存在せず、社会の文法も作用しない。食べ、眠るという単純な行為が、キャンプという聖域の中では、世間とは全く別の文脈を帯びていた。

私はその場所を、自分だけが出入りできる“小さな避難領域”のように認識している。言葉にするなら、それはアジールと呼ぶに相応しい領域だった。

静けさが演出へと変わるとき

近年、ソロキャンプYouTuberの台頭によって、この静かな領域は急速に変質し始めた。焚き火の音や森の沈黙は、視聴者に届けるための素材となり、質素な道具は“質素に見えるセット”へと変換される。

自然の中で過ごす時間は編集され、整えられ、演出として消費されるようになった。アジールでの行為そのものが、他者の視線を前提としたパフォーマンスへと変わるとき、外側の世界にあったはずの領域はその特性を失っていく。

アジールが産業として扱われる構造

ソロキャンプYouTuberの活動は、自然の中で過ごす時間そのものを産業へと変えてしまった。

企業とのタイアップや高額ギアの宣伝、テレビ番組化など、アジールは産業の一部として組み込まれている。自分と向き合うはずのアジールが、視聴者とスポンサーに向けたパフォーマンスへと変わり、静けさは演出に、孤独は商品に、質素さはブランドへと変換されていく。

アジール領域は、他者の期待に応える場所ではない。しかし、昨今のキャンプは、期待に応えることを前提にした行為へと変質しかかっている。

質素さを語りながら豪華な装備で固める矛盾

ソロキャンプYouTuberは「最低限の道具で自然と向き合う」と語るが、実際には高額なギアや外国製の大型バイク、企業提供の最新装備が揃っている。

質素さを語りながら、質素とは程遠い装備で固めるという矛盾は、自然との対話ではなく、見せるための装置としてのキャンプを露呈させる。アジール領域は、誰にも見せる必要がないからこそ成立する。しかし、映え文化と産業に取り込まれたキャンプは、見せることを前提にした行為へと変わり、アジールとしての性質を失っていく。

模倣が一般化すると外側領域は完全に消える

もともと“見られること”を本業にしていた人がやるならまだ理解できる。しかし、その形式が一般化すると、見せるためのキャンプ、サムネ映えのための焚き火、ギア紹介のための料理へと変わってしまう。

本来は自分のための行為であったキャンプが、他者へのサービスへと置き換わるとき、アジールは聖域としての特性を失う危険性がある。そこは他者の意思が入り込んだ瞬間に崩壊するfragileな場所であり、今のキャンプ文化はその境界を越えつつある危険性を感じる。

キャンプ系アニメの実態は“実在ギアの商品カタログ”

コロナ禍が後押しして流行ったキャンプ系アニメ、例えば『ゆるキャン△』は実在メーカーのギアをそのまま登場させることで、視聴者に“正解の装備”を提示する役割を担っている。

キャラクターが使うテントやストーブは、物語を引き立てる小道具というより、むしろキャラクターによる商品紹介という形で登場する。キャンプ好きの人間からは、高校生が使うには金額的に高すぎるという意見や、祖父から貰ったという設定のギアが流行り物すぎるという指摘もある。

メーカーはアニメ制作に協力し、実在ギアが自然と作品内で露出されるのだ。キャンプ未経験者や初心者は、それを推奨セットとして受け取り、キャンプ場には同じモデルのテントが並ぶ。アニメは物語であると同時に、メーカーにとって広告媒体として機能している。

この構造が進むほどに、キャンプは外側の領域ではなく、消費行動の延長としての空間へと変わっていく。こうしたキャンプアニメが悪いわけではないが、アニメが提示する“理想のキャンプ”がそのままテンプレートになり、アジールとしてのキャンプは静かに後退していくことになりかねない。

外側の領域が映え文化に呑み込まれる危機

私が感じているのは、単なる違和感ではない。それは、アジールが失われていく強烈な危機感だ。

アジールがコンテンツ化される。静けさが演出になり、孤独が商品になり、質素さが金銭になる。かつての外側領域は、“映える自然”という名の消費財に変わりつつある。世間から自由でいられたはずの場所が、世間を前提とした空間へと変わっていくとき、アジールとしての意味は失われていく危険がある。

外側の領域は守らなければ消える

アジールは、誰にも見られず、誰にも評価されず、誰にも説明しないという条件の上に成立する。

しかし昨今、キャンプはその条件を失いつつある。自然の中に逃げ込んでも、そこにはすでに世間が入り込んでいる。静けさが演出になり、孤独が商品になり、外側が外側でなくなる未来が、すぐそこまで迫っているのかもしれない。

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ショッピングモールの正月イベントに感じる“どうしようもない違和感”の正体

画像はイメージ(記事と関係ありません)

正月になると、郊外のショッピングモールの屋外ステージに、毎年同じ三味線奏者が現れる。去年も同じ。今年も同じ。演奏もトークもほぼ同じ。

観客の顔ぶれだけが毎年微妙に入れ替わる。去年と同じような光景に違和感を覚えたが、よくよく考えると理由は単純だ。ショッピングモールは、危険な演目を避け、安全で無難な選択肢を選んでいるだけなのだ。

「正月だから三味線」という安直なテンプレート

日本の正月としての三味線。和楽器は三味線だけではないし、そもそも、正月イベントが必ず“演奏枠”である必要すらない。つまり、三味線演奏でなければならない理由はどこにもない。

ただ、ショッピングモールのイベント担当者の頭の中は、大体こうなっているはず。

去年:問題なし
集客:そこそこ
上司:何も言わない
予算:収まる

結果、「今年も三味線でいいじゃん」となる。去年と同じであることは、担当者にとって最大のリスクヘッジ。新しいことをやってトラブルになるくらいなら、去年と同じように回したほうが安全なのだ。

去年問題がなかったという事実は、モール側にとっては“最適解”である。文化的価値ではなく、運営上のリスク管理で選ばれているのだ。

三味線はモールに向いていないが“安全”である

三味線は響きが大きい楽器だ。ショッピングモールのような、人が行き交う混雑した空間で鳴らすと、興味のない通行人にとっては“ただの騒音”として耳に届きやすい。

しかし、それでも三味線は安全だ。雑技ショーなどと違って事故が起こる心配がない。落下もなければ、観客を巻き込む危険性もない。ショッピングモールにとっては、音がうるさいという程度の問題は許容範囲なのだ。

中国雑技団が演目から消えた理由

かつて、同じモールの正月イベントには中国雑技団が来ていたが、今年は演目から外れた。コストが高いうえに、事故のリスクを避けた結果だろう。

街のショッピングモールは、家族連れや高齢者、子どもが集まる空間だ。そこで危険な演目を行うリスクは、運営側からすれば避けたいのは当然。つまり、危険な雑技ショーより、三味線のほうが圧倒的に安全で無難なのである。

違和感の正体は老人ホームのようだったこと

三味線という伝統楽器のためか、ショッピングモールのステージ前に集まる観客の多くは高齢者だった。高齢者が楽しむこと自体は何の問題もない。しかし、公共空間が老人ホームの慰安イベントのように見えてしまう。文化の発信ではなく、安全で無難だからという理由で選択された結果だと言える。

モールの正月イベントは、文化の継承でも地域の活性化でもなく、実態としては高齢者向けの慰安プログラムに近いものだった。危険を伴う雑技団のパフォーマンスは排除され、結果として残ったのは、ただ“安全に空間を埋める”ための妥協の産物だった。

しかも、そのステージは普段は素人カラオケや無名バンドが演奏しているような、伝統文化の重みとは無縁の空間だ。そこに三味線の音が正月だからと響き渡ると、なんとも言いようのない違和感を伴ってしまう。素人カラオケと同じ空間で伝統楽器を鳴らすという矛盾そのものが、ショッピングモールという空間の軽さを物語っているように感じられた。