コネタ

旅モノ

新潟は首都圏からの安くて“ちょうどいい”旅行先である7つの理由

新潟市の中心部を流れる信濃川と新潟の街並み

首都圏から気軽に行けて、お金もあまりかからなくて、それでいてちゃんとした“旅行気分”になれる場所を探すのは意外と難しい。

近すぎると旅行気分になれないし、遠すぎると移動が負担になる。その点、新潟はちょうどいい距離間と旅費で収まり、それでいてしっかり旅を楽しめる場所である。ホテル代は全国的に見ても驚くほど安く、街は歩きやすくて、食べ物はおいしい。海や川の景色もすぐそばにある。日常の隙間を使った2~3日程度の小さな旅にもピッタリの土地だ。

移動距離と旅情のバランスが絶妙

東京駅から新潟駅までは新幹線で最短1時間30分程度。リーズナブル派や移動自体もゆっくり楽しみたい人には、在来線乗り継ぎでも6時間程度で行き来ができる上に、高速バスも各社からラインナップされている。

首都圏から新潟に向かうと、車窓の景色は途中から夏は田んぼが広がり、冬は雪国の色を帯び始める。アクセスが良かったとしても、景色の違いによって日常からは確実に離れることができる。首都圏からの短期の旅行先としては、これほど効率的に旅情が得られる場所は多くはない。

特に冬は宿泊費が驚くほど安い

新潟市は本州日本海側では唯一の政令指定都市、つまり都会的な機能を持った全国有数の都市であるが、宿泊費の相場は驚くほど安いことが多い。

特に冬の新潟は宿泊費が非常に落ち着いている。新潟駅周辺のビジネスホテルは1泊3千円台で泊まれることが多く、日によっては2千円台まで下がることも珍しくない。これは単なる節約ではなく、旅の自由度を高める要因となる。宿泊費が抑えられると、食や体験などに予算を回せる。費用を抑えつつ、旅の質を落とさないという意味でも、宿泊費の安さは大きな意味を持つ。

都市と自然が近くて現地での移動コストが抑えられる

イルカショーも楽しめる新潟市水族館「マリンピア日本海」

新潟市は都市としての規模がありながら、海、川、街がコンパクトにまとまっている。

水族館、海沿いの散歩道、信濃川の風景、街中の多くの観光施設への移動が徒歩だけで完結する。現地での移動にお金も手間も奪われないため、滞在の密度が自然と高くなる。これは旅の満足度を大きく押し上げる。

手頃な価格で味わえる食の豊かさ

米とタレの直球勝負なのが新潟名物タレカツ丼

新潟の食は観光客向けに演出されたものではなく、地元が育んだ食文化そのものである。

焼きそばにミートソースがかかったイタリアン、懐かしい黄色いバスセンターのカレー、タレカツ丼。どれも街中の気軽な店で楽しめるが、味はしっかり個性的で土地の文化が感じられる。安いのに深いという稀有な食体験ができるのが新潟の魅力だ。

佐渡島という離島行きへのオプションもある

本州側の新潟とは違った景観と文化が味わえる佐渡

新潟への旅は本州だけで完結しない。新潟市の中心部から程近い場所にあるフェリーターミナルから日帰りで行ける佐渡島は、文化も景観も本州側の新潟とは異なる世界を持っている。

一度の旅行で都市と離島を行き来できるというのは、旅の価値を大きく押し上げる。短い旅でも体験のレイヤーを増やせるのが新潟の強みだ。

日本酒の酒蔵が全国最多で“本物の味”を楽しめる

新潟市の街中にある今代司酒造は見学無料

新潟県は日本酒の酒蔵数が全国で最も多い地域として知られている。新潟市内だけで複数の酒蔵があり、種類も味わいも幅広い。

新潟の日本酒文化は観光客向けに演出されたものではなく、あくまで地元の人が普段から親しんでいる文化である。酒蔵見学や試飲ができる場所も数多くあり、少ない時間と予算でも“本物の日本酒文化”に触れられる。食と合わせて楽しむと、旅の満足度が一層上がる。

新潟旅行は低予算ながら体験のバランスが優れている

新潟は首都圏からの移動のしやすさ、宿泊費の安さ、食の豊かさ、街のコンパクトさなど、旅を気軽に楽しむための条件がそろっている。

お金をかけなくても満足できる旅ができるのが新潟の良さだ。首都圏からの短い旅行先として、気軽に行けて、ちょうどよく楽しめる場所を探しているなら、新潟は全国のどこよりも自信を持ってオススメできる旅行先だ。

PC & モバイル

なぜ日本だけがLINEに支配されているのか -国も企業も個人も“一企業のアプリ”に依存する異常性-

画像はディスカス

日本では個人の連絡も企業の販促キャンペーンも、国や自治体の情報発信も、すべてがLINEという一企業のメッセージアプリに依存している。

企業ではLINE公式アカウントの友達登録キャンペーンが当たり前になり、国税庁までがLINE公式アカウントを運用している。気づけば、もはや国全体が一企業のアプリに寄りかかっている状態だ。

世界を見渡すと、ここまで一つのアプリに依存している国はほとんどない。なぜ日本だけがLINEに支配されているのか。その理由を海外の状況と比べながら考えてみたい。

日本人のLINE依存は異常値に近い

日本のLINE利用者は約1億人に迫り、人口の大部分が使っているとされる。個人の連絡だけでなく、ニュースや決済、行政情報までLINEに集約され、生活のあらゆる領域が一つのアプリに吸い込まれている。

海外ではどうかというと、国ごとに主流のアプリは分散している。アメリカはiMessageやWhatsApp、ヨーロッパはWhatsApp、中国はWeChat、韓国はKakaoTalkといった具合に複数の選択肢が共存している。

日本のように企業も自治体も行政も、同じ一つの民間アプリに依存している国は、ほぼ存在していないと言っていい。

LINEが普及したきっかけは2011年3月の東日本大震災

まず前提として、LINEは韓国のNAVERの日本法人が2011年6月にリリースしたアプリである。

東日本大震災では電話回線が使えなかった経験から、インターネット経由で連絡できる手段として生まれた。つまり、出自は韓国系企業で、誕生のきっかけは日本の災害という背景を持つ。

ガラパゴス文化がそのままLINEに移植された

日本人は「みんなと同じものを使う」ということに安心感を覚える傾向が強い。ガラケー時代の横並びの安心感が、そのままLINEに移行したと言える。

海外で主流のメッセージアプリは日本ではほとんど普及せず、LINEだけが“みんなが使っているから”という理由で固定化された。日本人はアプリの乗り換えが極端に苦手で、新しい選択肢に対して慎重になりすぎる傾向がある。先に普及したLINEが生活の基盤になり、他の選択肢が入り込む余地がなくなった。

企業や自治体がLINEを“インフラ”として扱い始めた

企業はプロモーションのためにLINE公式アカウントを導入し、自治体は住民が多く使っているからという理由でLINEを採用した。

企業が使うから自治体も使い、自治体が使うから住民も使い、住民が使うから自治体がさらに依存するという循環が生まれた。海外では国や自治体が民間アプリに依存することはほぼなく、ここが日本の特殊性を際立たせている。

すぐブロック確定なのに企業は友達登録を強制

日本のLINE文化で特に奇妙なのは、ユーザーが企業アカウントをすぐにブロックするのに、企業は友達登録をキャンペーンで強制し続ける点だ。

割引のために登録し、通知がうるさくてブロックし、また別の店で登録し、またブロックする。この無意味な往復運動が日常化している。企業は友達登録を顧客獲得と勘違いし、ユーザーは割引のためだからと仕方なく一時的に登録する。これは正常なコミュニケーションではなく、双方が思考停止していることを示す。

初対面でLINEを聞くLINE依存人間の狂った距離感

付き合いで初めて飲みに行っただけなのに、当然のようにLINEを聞いてくる人がいる。

まだ相手のことをよく知らないし、次に会うかどうかも決まっていない。それでも「とりあえずLINE交換しよう」と言われる。断ると空気が悪くなり、交換すると面倒が増え、忘れた頃に結局ブロックする。これはLINEがコミュニケーションを深める手段ではなく、惰性の儀式になっている証拠だ。距離があるのに距離がないふりをする。その結果、ブロックする手間だけが増えていく。

日本社会は“変化できない構造”を抱えている

LINEは優れているから使われているのではなく、みんなが使っているからという同調圧力で固定化したと言える。

企業も自治体もLINE以外の選択肢を考える発想がなく、一企業のアプリに国全体が依存するという危うい構造が生まれた。海外では一企業への依存を避ける発想が当たり前だが、日本ではその感覚が弱い。LINE依存はアプリの問題ではなく、日本社会の“変化できなさ”がそのまま可視化された結果だ。

みんなが使っているからという理由だけ

日本の異常なLINE依存は、LINEが特別に優れているからということではなく、みんなが使っているからという思考停止の結果に見える。

個人も企業も国や自治体も、みんなが使っているからという理由で一つのアプリに寄りかかる。その姿は横並びを好み、変化を避ける日本社会の縮図だ。LINEが悪いのではない。LINEしか選べない日本が特殊なのだ。

コネタ

人が死んでも電車が止まると怒り出す日本の歪んだ社会構造を考察する

画像はイメージ

ある日、Yahoo!ニュースのコメント欄を眺めていたら、電車の人身事故で受験生が遅れたという記事に対して「迷惑だ」「死ぬなら今日じゃない日にしろ」という書き込みが並んでいた。

人が亡くなっているのに、最初に出てくるのが自分の不便という反応に強い違和感を覚えた。その感覚を思い出したのは、身なりのいい大の大人にも拘らず、都心のラッシュの駅で他人にぶつかっても謝りもしない光景に遭遇したからだ。あの無表情な衝突と、コメント欄の空気がどこか同じ匂いを放っていた。

時間に追われ続ける東京人の朝

東京の都市生活者は日常的に時間と戦っている。

満員電車やギリギリの乗り換え、遅延の連鎖に受験や面接、商談のプレッシャー。こうした環境に長くいると、交通機関の一分の遅れさえも大きな損失のように感じられるようになる。人が亡くなったという事実より、自分が遅れるという不便が先に立つのは、時間に追われ続ける非人間的な生活によるものだ。

匿名空間で薄れていく他者への想像力

匿名のコメント欄では相手の背景を想像する余裕が消えていく。

自分のスケジュールが乱れたという一点だけが強調され、他者への共感は簡単に蒸発する。都市生活者のストレスと匿名性が重なると、人間の感情は驚くほど単純化される。ラッシュの駅での無表情な衝突と同じで、そこには相手を思う気持ちが入り込む隙がない。

競争構造の最前線に立つ東京の都市生活者

多くの場合、人身事故の背景には日本全体の競争構造や、社会保障の問題が関係している。

「流れに遅れれば置いていかれる」という感覚は、東京に限らず日本中に広がっている。その圧力が最もわかりやすい形で表面化するのが東京だ。人が多く、時間が細かく管理され、遅れがすぐに可視化される。

東京の都市生活者は、日本という国が抱える競争の圧力を最も強く浴びる場所に立っている。受験はその象徴のようなもので、受験会場への遅刻は人生の終わりという価値観が全国的なものとなっている。

「人生が左右される大切な日なのに受験生が可哀そうだ」という声が出るのは、結局のところ、国全体の構造が個人を追い詰めているからだ。

この違和感が示すもの

こうした反応を見るたびに、日本という社会にどこかおかしさを感じる。

このことに違和感を覚えるのは、自分が国の構造に完全に飲み込まれていない証拠なのかもしれない。東京の都市生活者が特別に冷たいのではなく、日本という国の競争構造が人間の感覚を破壊している。時間に追われる生活や競争の原理、匿名空間での共感の欠如。これらが重なると、他人の死より自分の遅刻が優先される反応が生まれる。

合理性が追求された日本という国の中で生きるということは、便利さと引き換えに競争の圧力を受け続けることでもある。その圧力が最も強く現れるのが東京で、ラッシュの駅での無表情な衝突や人身事故に対する冷たい言葉は、その構造が感覚を鈍らせている証拠なのだと思う。