コネタ

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EZ DO DANCEの8cmシングルを持っている俺はどう考えても勝ち組だと思う

ぶっちゃけベースで言うと、正直、7″ MIXを持っているという事実だけで、俺は世の中の大半の人よりも相当な優越感がある。

アルバム版しか知らない人とは、そもそも聴いている音が違う。EZ DO DANCEのシングル盤に収録されている7″ MIXは、今となってはシングルでしか確実に手に入らない“本物のEZ DO DANCE”だ。

配信はもちろん、アルバムやベスト盤で聴ける音源は、再ミックスされた別バージョンが多く、ステレオの定位が反転していたり、全体のバランスが変わっていたりする。

つまり、世の中の多くの人が聴いている「EZ DO DANCE」は、実は本来の「EZ DO DANCE」ではない。そう考えると、シングル盤を持っているという事実だけで、すでに世間一般の人よりも俺は、一歩どころか、二歩も三歩もリードしている気分になる。

物理シングルは再生産されないから価値が落ちない

8cmのCDシングルは再生産されることがまずない。そして、状態の良いものは年々減っていく。

配信は便利だが、ミックス違いを正確に区別してくれないことが多く、音源の原典性はどうしても薄れる。手元にあるシングル盤は、単なるCDというだけではなく、時代そのものを閉じ込めた記録媒体としての価値を持ち続ける。希少性は上がる一方なので、所有しているだけでちょっとした優越感がある。

しかも、TRFは90年代J-POPの象徴だから、資料的価値も高い。EZ DO DANCEの本来の姿が刻まれた音源を持っているというのは、完全に勝ち組ポジションなのは明白だ。

小室作品はシングルとアルバムでミックスが違うのが特徴だから、シングル盤を持っている人は「本来の音を持っている側」という扱いになる。

7″ MIXはシングルでしか聴けない価値がある

7″ MIX はシングル用に最適化された明瞭ミックス。発売当時のラジオやTV向けの公式基準音源であり、アルバム版とはミックスが別物なのだ。

つまり、シングル盤だけが本来のEZ DO DANCEの音を持っている。配信やベスト盤では別ミックスが入っていることも多いから、シングルを持っている=唯一確実な原典を持っているという状態。

これは普通に勝ち組だと言えるのは間違いない。

アルバム版は作品全体の流れに合わせた妥協ミックス

アルバム版は、アルバム全体の音量や質感に合わせて、やや落ち着いたバランスになっている。

ボーカルが7″ MIXより少し奥にあり、シンセの広がりが強調されていて、低音がやや丸い。全体が“空間的”に聴こえるのがアルバム版の特徴だ。つまり、アルバムの中で馴染むように妥協的なミックスとなっている。

そして、最大の違いは全体のノリだ。7″ MIXはダンスフロア向けで前に突き出す感じ。アルバム版はリスニング向けで、空間的に広がる感じ。同じ曲でも、体が反応するリズムの感じ方がまるで違う。

つまり、同じ曲の別ミックスではなく、実質的に別の曲と言っていいくらいだ。

90年代の空気ごと所有している感覚がある

シングル盤を手に取ると、ジャケットのデザイン、紙質、歌詞カードの雰囲気、すべてが90年代の空気をまとっている。

配信では絶対に味わえない“物としての存在感”がある。音だけでなく、90年代当時の文化や空気感まで含めて所有しているような感覚があって、それがまた心地いい。音楽を聴くという行為が、単なる再生ではなく、体験として成立する。

勝ち組という言い方もできるし、“正しい音を持っている側”という表現の仕方もできると思う。

結論 EZ DO DANCEのシングル盤を持っている俺は勝ち組

7″ MIX という本来の音を持っていること、物理シングルの希少性、そして90年代の空気ごと手元にあるという満足感。

これらを考えると、どう考えても「EZ DO DANCEのシングルを持っている俺は勝ち組」と言いたくなる。

これからも大切にしていくつもりだし、この感覚はきっと、ずっと変わらない。

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東京の地下鉄が不自然に曲がりくねって非効率に思える路線形状ばかりの理由

行き場を失くしたかのように都心部で顔を出す東京メトロ丸の内線

東京の地下鉄は路線図を見ると「どうしてこんなにクネクネと曲がりくねって、わざわざ遠回りしやがって、しまいにUターンまでするのか?」とイラつくほどに不自然な形状をしている。

だが、これは設計が失敗したというよりは、江戸時代から大都市として発展していた街に後付けで地下鉄を押し込んだという歴史的な事情が大きい。海外の大都市にも似た例は見られるが、国内の他の都市と比べると、東京は特殊な条件下で地下鉄を作ったというのが鮮明になる。

東京の地下鉄は既存の大都市に後付けで建設

1920年代に東京で地下鉄の建設が始まった頃、すでに東京は道路や建物、上下水道や電線でぎっしりだった。地下鉄はかろうじて空いている隙間を探しながら造るしかなく、鉄道にとって理想的な線形で、真っ直ぐ造れる場所はあまり残されていなかった。

この状況は19世紀から地下鉄の建設を始めたロンドンに似ている。ロンドンも既存の大都市の地下に建設したため不自然な曲線が多い。パリも同様で、古い街並みの下を縫うように走るため、路線は複雑な構造となった。

一方、戦後に都市計画が進んだ札幌は、碁盤目状の道路が広く整備されていたため、地下鉄も直線的に通すことができた。名古屋も広い道路が多く、地下に余裕があるため、東京ほどは混雑に悩まされていない。大阪は東京より古くから栄えている都市だが、都市密度が東京ほどではなく、曲線はあるものの東京ほどのカオス感は生まれなかった。

東京の地下には避けるべきものが多すぎる

東京の地下は、世界でも屈指の複雑さだ。既存の地下鉄、JRのトンネル、巨大な下水道、暗渠(埋められた川)、地下街、ビルの基礎杭など、避けなければならないものが無数にある。

ニューヨークも地下構造物が密集しており、実際のトンネルは曲線だらけだが、路線図は直線的に描かれているため気づきにくい。ソウルも地下街や既存インフラが多く、避けるべきものが多い都市だが、それでも東京ほど地下が混雑している状況ではない。

名古屋や福岡の地下街は大規模だが、東京ほど多層構造ではないため、路線は比較的素直に通る。横浜も地下街はあるものの、東京のように地下鉄の上と下に別の地下鉄が重なるような状況ではない。神戸は山と海に挟まれているが、地下のインフラ密度は東京ほどではなく、京都や仙台も地下構造は比較的シンプルだ。

需要に合わせて駅を建設したから線路が曲がる

東京は商業地、住宅地、大学、官庁街が広範囲に散らばっている。地下鉄はそれらを効率よく結ぶために、ある地点と別のある地点を最短距離で結ぶというより、需要を細かく拾うルートを優先した結果、路線が曲がりくねったという見方もできる。

札幌や仙台、福岡は中心部がコンパクトで、名古屋も中心部が明確。京都や神戸も都市構造が比較的明確で、東京ほど需要の散らばりには悩まされていない。

競合を避ける縄張り争いで路線が歪んだ

東京はJR、都営地下鉄、東京メトロ、そして多数の私鉄が入り乱れる世界でも珍しい鉄道密集都市だ。各社が互いの路線と競合しないように微妙にルートをずらした結果、本来は直線で行ける区間が歪に曲がることが多かった。

パリやロンドンも複数の事業者が関わった歴史があり、競合を避けるために路線が微妙に曲がることはあるが、東京ほど入り乱れていはいない。国内の地下鉄がある他の都市では、JRや私鉄など他の事業者との競合は少なく、東京のように縄張り争いが発生する状況にはなりにくかった。

都心の皇居を避けて建設する必要があった

東京の地下鉄が大きく曲がる理由の中でも、皇居の存在は極めて特殊で、他都市にはほとんど見られない制約だ。

皇居は東京都心のド真ん中に位置し、広大な敷地を持つが、皇居の地下を掘ることはできない。その結果、東京の中心部では路線が皇居を大きく迂回する形になり、多くの地下鉄路線が皇居を避けるように不自然に回り込んで走っているのはその象徴だ。

この都心の巨大な空白地帯は、札幌や名古屋、福岡のように中心部をまっすぐ地下鉄で貫ける都市とは決定的に異なる。大阪や京都にも歴史的建造物は多いが、皇居ほど広大で絶対に避けなければならない中心部の空白地帯は存在しない。

世界の都市と比べても、皇居のような存在は珍しい。ロンドンにはバッキンガム宮殿があるが、皇居ほど広大ではなく、都市の中心を完全に遮断するほどではない。パリのエッフェル塔やルーブル美術館も同様で、地下鉄は比較的自由に通せる。ニューヨークのセントラルパークは広いが、地下鉄はその下を通っており、皇居のような絶対不可侵の領域ではない。ソウルの景福宮は歴史的建造物だが、皇居ほどの規模ではなく、都市構造への影響も限定的だ。

東京の地下鉄の不自然な曲がり方を理解するうえで、この皇居の存在は欠かせない要素になっている。

新しい路線ほどカーブだらけで走行音がうるさい

東京の地下鉄の中でも比較的新しい2000年に全線開業した大江戸線は、車内の騒音が大きいというという声がよく上がる。

大江戸線は急カーブが非常に多い。これは後発であるがために東京の地下深くを通るとはいえ、既存の地下構造物を避けながら建設したという事情がある。カーブや下り坂では、車輪とレールの摩擦が増え、金属音が響きやすい。

そして、トンネルが小さいことが騒音をさらに増幅する。通常の地下鉄トンネルが内径6.2m前後なのに対し、大江戸線は約4.3mと断面が狭いため、走行音が逃げ場を失い、壁に反響して増幅される。コロナ禍で換気のために窓を開けて走行した時期には、100デシベル以上に達した区間もあったというが、これはパチンコ店や工事現場に匹敵するレベルで、会話が出来ないほどの騒音だ。

東京は地上も地下も曲がりくねっている

東京は地上を歩いていても道が微妙に曲がり、気づけば方角がずれていくような街だ。観光やビジネスで東京の街を歩いている時に、駅に向かっていたはずが、なぜかいつの間にか逆方向に歩いていたという、不可解な経験をした人は少なくないだろう。

古い街道と新しい道路が折り重なり、歴史の積み重ねがそのまま街の形に刻み込まれている。その複雑さは地下に潜るとさらに際立ち、地下鉄は既存の建物やインフラを避けながら、空いている隙間を縫うように走る。路線は地上に負けず劣らず曲がりくねり、真っすぐ進むことを許さない。

札幌のように計画的に作られた新しい都市では、道路も地下鉄も碁盤目状に整い、都市そのものが「まっすぐ進む」ことを前提にしている。東京はその対極にあり、どこか歪んだ都市のように映る瞬間がある。

そして、その歪みは単なる都市構造の問題にとどまらない。日本の事実上の首都がこれほどまでに曲がりくねり、まっすぐ進めない形をしていること自体が、どこか日本という国のあり方を象徴しているようにも思えてくる。

積み重ねた歴史を抱え込みながら、調整と妥協を繰り返し、気づけば本来の方向から少しずつずれていく。東京の街並みは、そんな日本という国の姿を静かに映し出しているかのようだ。

グルメ

尾道レモン塩以外の「ご当地塩」は実際には使い道がほぼ存在しない

観光地に行くと、最近はどこにでも「ご当地塩」が並んでいる。

その土地っぽいフレーバーをまとった商品が棚を埋め尽くすが、実際のところ、中身は普通の塩に余計な風味を足しただけの代物だ。

そして、こういう塩を買ったとしても、家に持ち帰るとほぼ使われることはない。理由は簡単。日常の料理に必要な要素がひとつもないからだ。

各地のご当地塩の例

観光地でよく見かけるご当地塩には、それぞれ「買いたくなる魅力」と「家に帰ると使われない理由」がセットで存在している。ほとんどの都道府県に存在すると思われるが、その例を挙げてみる。

昆布塩(北海道)

昆布の風味が効いているのはいいが、実際は和食にしか合わなくて使い道が限定的。

ハイビスカス塩(沖縄県)

沖縄らしい鮮やかな赤が目を引くのに、香りと味が邪魔で使い道がほぼ存在しない。

海老塩(三重県)

海老の風味なのはいいが、そのせいで合わせられる料理が限られるのがネック。

明太子塩(福岡県)

もはや通常の塩というより、おにぎり専用という割り切り型。

ご当地塩の9割は観光地のテンションでしか成立しない

ご当地塩は、旅行中のテンションに寄生して売られている。非日常の空気、旅先の高揚感、SNS映え、パッケージの可愛さ。こうした外部要因が価値のほぼすべてを占めている。

しかし、家に帰った瞬間に旅先テンションという魔法は解け、「普通の塩の方が美味しいし使いやすい」という当たり前の事実が立ちはだかる。しばらく経つと、ご当地塩は料理の邪魔をするか、使い道が限定される“いらない存在”であることが浮き彫りとなる。

尾道レモン塩だけが例外である理由

そんな根本的課題を抱える“ご当地塩界隈”で、尾道レモン塩だけは別格だ。

これは単なる観光地向けの商品ではなく、日常の調味料として成立している唯一のご当地塩である。レモンの酸味が軽く、料理の方向性を壊さず、肉、魚、野菜のどれにも合い、和食にも洋食にも馴染む。

普通の塩の延長線で使える合理性がある、唯一のご当地塩だ。他のご当地塩が「旅行の思い出」で終わるのに対し、尾道レモン塩だけは「生活の味」に昇格できる。この差は圧倒的で、埋まることはない。

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普通の塩が万能であるという現実

そもそも、塩は味覚の基準点であり、どんな料理にも合い、余計な風味がなく、失敗しない。

変わり種塩は、この基準点の強さには勝てないのだ。だから、尾道レモン塩以外のご当地塩は、「観光地で買った瞬間だけ存在する幻」と言っていい。観光地で買うのは旅の思い出にはなるが、キッチンで生き残るのは尾道レモン塩だけで、それ以外は棚の奥で眠る運命にある。