コネタ

WEB制作

現代のWebデザイナーは3つの地獄のどれを選ぶかを迫られている現実

画像はイメージ

かつてWebデザイナーは、まだ夢のある仕事だった。

2010年代中頃、まだ彼が自分の職業をWebデザイナーだと名乗っていた頃、世界はもう少し単純だった。HTMLとCSSを書き、Photoshopで画像を切り出し、「すごいですね」と言われるだけで仕事が成立していた。

完璧でなくても怒られず、誰も測定ツールを持ち出してこなかった。Webは魔法の箱で、依頼している人間も中身を理解していないという、都合のいい曖昧さがあった。

だが、その曖昧さはスマホとCMSとFigmaによって完全に消えた。Webは成果を測定され、再現性を求められる場所になった。夢は仕様書に変換され、感覚は数値に置き換えられた。

Figma地獄の道を歩んだ者たち

彼の“元Webデザイナー“の知人には、デザインに特化する道を選んだ者がいる。

一日中Figmaを開き、コンポーネントを整え、オートレイアウトを微調整し、バリアントを増殖させ続けている。しかし、彼の仕事は常に未完成だ。

「もう少し丸くしてほしい」
「やっぱり戻したい」
「前の案のほうが良かった」

そんな言葉でデザインは簡単に巻き戻る。Figmaのキャンバスには、使われなかった案が静かに積み重なり、まるで自分の墓標のように並んでいく。

公開されたWebサイトには彼の名前は残らないが、Figmaの履歴だけがすべてを覚えている。

理系地獄に落ちた元Webデザイナー

別の知人は、エンジニア側へ進んだ。もはや従来型の広く浅いタイプのWebデザイナーとしては生き残れないと悟ったからだ。

JavaScript、PHP、CMSカスタマイズ、API連携、パフォーマンスやSEOまで完全に理解する必要があった。

このルートに入ると、もはや「デザイナー」という肩書きは過去のものとなる。論理、仕様、バグ、保守。感性よりも再現性が求められ、理系的な思考耐性がないと精神的に削られる。報酬と案件は比較的安定するが、求められる勉強量は終わりがない。

彼は休日でも頭のどこかで常にコードが動き続けるようになった。

コミュニケーション沼に沈むディレクター

さらに別の道を選んだ者もいる。Webディレクターだ。

彼はもうほとんどコードは書かず、デザインも自分では滅多に作らない。ただし、誰よりも多くの言葉を扱う。クライアントの曖昧な感情と、エンジニアの冷たい仕様の間に立ち、それらを翻訳するのが仕事になった。

「それって技術的に可能なんですか?」
「いや、気持ち的にこうしたいんですよね」

この翻訳作業が主な仕事になる。板挟み、炎上、認識齟齬。制作物は完成するが、精神は摩耗する。代わりに得られるのは議事録作成スキルだ。

「なんか違う」という言葉を要件に変換し、「仕様です」という言葉を納得に変換する。完成したサイトを見ても、自分が何を作ったのかはよく分からない。残るのは議事録と、終わらない調整の記憶だけだ。

選べなかった者の末路

問題は、この3つの選択肢のどれにも割り切れなかった人間だ。

デザインがそこそこできて、コーディングもある程度は可能、コミュニケーションも普通にできる。かつては「なんでもできる人」と呼ばれたその状態は、今では「役割が確保できない」という理由で明確に排除される。

現代のWeb制作は、曖昧な存在を許さないのだ。

だから、彼は今日もFigmaを開く。アップデートで以前のツールがどこに行ったかわからないが、それでもFigmaを開く。

選択肢は3つあった。Figmaの中で消耗するか、理系地獄に身を投じるか、コミュニケーション沼で溺れ続けるか。そのどれも楽ではないが、選べるという点だけは自由だ。

Webという仕事から完全に離れない限り、何も選ばないという選択肢は存在しない。それがWebデザイナーという職業が辿り着いたブラックな結末である。

ゲーム

「ライザのアトリエ」はつまらない? 旧来のアトリエファンが思う率直な辛口レビュー(ネタばれあり)

PS4「ライザのアトリエ 〜常闇の女王と秘密の隠れ家〜」の辛口ゲームレビュー。個人の感想、ネタバレあり。

大事なので2回言うが、個人の感想として、ライザのアトリエはつまらないゲームだった。

ライザのビジュアルに注目されて売れに売れたタイトルだけど、過去のアトリエシリーズと同じ感覚で遊ぶと、各所に違和感ありまくりで、言ってしまえばアトリエシリーズ屈指のクソゲーだと思った。

異例の3作品も同じ主人公で作られたアトリエ

アトリエシリーズはプリキュアシリーズと同じで、基本的に同じ主人公の作品は1作しか作られないのが原則。ただ、例外的に人気が高い主人公の場合は、商業主義として同じ主人公で続編が作られる場合があり、その最たる例がこの「ライザのアトリエ」である。

1作しか作られないのが基本のアトリエにして、なんとライザは3作品も作られているのだ。この数字だけをみると、ライザはアトリエの中で異常なほど商業的に成功しているゲームであることがわかる。少なくとも、商業的には成功しているということに間違いはない。

ちなみに、ライザがどのくらい売れているかというと、ライザ3作品の売り上げの合計は、なんと無数にあるアトリエシリーズ全部の3分の1程度に相当するのだという。他のアトリエが大した売れていないのか、それともライザが売れすぎているのか。どっちなのかはわからないが。

そんなライザを頑なにプレイしていなかった理由

アトリエシリーズの中でも特に人気の高いアーランドシリーズなどにおいては、主人公や味方女性キャラは、ほとんどがロリ、スレンダー、かわいい系が中心。

だが、ライザはその対極にあり、ムチムチした太ももをはじめとした、肉感的な造形が特徴。

人気が高いせいで中古価格が高止まりしていて買いづらかったというのもあるけど、ライザのビジュアルが好みではなかったというのが、手を出さなかった理由としてかなり大きい。

序盤は退屈なパシリの連続

周回プレイを除けば、アトリエシリーズをプレイするのは結構久しぶり。

アトリエシリーズは、見るからに荒廃した世界で悪に立ち向かうようなRPGにありがちな壮大な話ではなくて、女の子の日常生活そのものがテーマとなっているのが特徴。つまり、序盤どころか下手したら最初から最後まで、お使いの連続なのがアトリエだ。

「〇〇を取りに行って来て」「〇〇を調合して納品して」ということを延々と繰り返す。むしろ、お使いというより、これはパシリに近い。昔、大手広告代理店の「電〇」に採用説明会に行ったときに「3年間はパシリをやって貰います」みたいなことを言われて、その場で辞退したことを思い出す。

話しが逸れかかったが、うん、アトリエシリーズってこんな感じだったなぁ、と懐かしさを覚えるものの、だからこそ、主人公を魅力的に感じるかどうかは大事なのだ。

延々とライザの尻と太ももを見ながら、パシリ、いや、お使いをこなしていくのがライザのアトリエの序盤である。

ライザの両脇には取り巻きの男が2人

ライザのアトリエを初めてプレイした時の違和感を一言で表現すると、なんだ、この田舎のガキ大将構成は・・・という呆れにも近い感覚だった。

アトリエシリーズのパーティーは、必ずしも女子ばっかりってわけではないけど、幼馴染とか、いじられ役とか、物理攻撃担当の男キャラが2人か3人くらいはいたりする。だが、旧来のアトリエシリーズでは、男キャラは良くも悪くも影が薄いことが多い。

女子同士の濃密な絡みはあっても、男性キャラはクリアしてからしばらく経つと、みんな空気みたいな存在で、顔も名前も全く思い出せなくなってしまうくらいに影が薄いのが普通。あくまでも、彼らは主人公を引く立てる脇役に徹しているのだ。

しかし、ライザのアトリエの男性キャラたちはメインストーリーに濃密に絡んでいて、自分たちが本当は空気であるべき存在であることを忘れている。男性キャラが女性キャラと同じように対等に扱われているという、アトリエとは思えない描かれ方をしているのだ。

ちなみに、ライザの取り巻きは男2人で、ガタイのいい男と、コナンみたいな男の子。

唯一の女子がムチムチのライザだけで、残り2人が男ってどういうアトリエ? 俺の知ってるアトリエと違う。そもそもスレンダー女子ひとりもいないんだけど? と思いつつ、パシリをこなしていく。

序盤~中盤は本当にライザと男2人という固定パーティーがずっと続く。イベントも戦闘も、精神的にかなりキツい。中盤~終盤にかけて女性キャラが2人加入するけど、1人目はともかく、2人目は戦力は高いものの、キャラとしてはアクが強くて救済にはなっていない。

素材集めの難易度が序盤から結構高い

アトリエのゲーム的なメインは、素材集めと調合なのはよく知ってるけど、パシリとして納品しないとならないものを作るための素材集めが序盤から結構しんどい。

後半の重要アイテムの調合とかだと、素材集めに苦労するのはわかるけど、まだプレイ開始数時間のレベルなのに攻略サイトを見ないと集めにくい。

ルルアとかリディ―とか、他のアトリエシリーズだったら、スレンダー女子や横乳のビジュアルがあるから何時間でも耐えられるけど、ライザとエグザイルとコナンだと、このメンツの一体何に楽しさを感じるべきなのかと、哲学的な疑問が沸いたりもした。

いや、序盤というより、俺のアトリエ経験と野生の勘だと、最後までずっとこの感じの気もするから、かなり気か滅入ってくる。

戦略性と味が失われたリアルタイム風バトル

アトリエシリーズでは歴代初となる、リアルタイムで待ったなしに時間が流れるタイプのコマンドバトルが採用されている。昔のSFC時代のFFシリーズから戦略性を根こそぎ全部そぎ取った感じのリアルタイムバトルだ。

過去のアトリエシリーズのように、女の子のビジュアルを隅々までじっくり鑑賞しながら、状況にあわせて戦略を一つ一つ立てつつ攻略するというよりは、他の仲間がAIで勝手にリアルタイムで戦う中、自分も雰囲気でボタンを連打していくだけのような感じ。とにかく、もう戦っている雰囲気だけ。

独特のバトルシステムが心底つまらない

最初の頃だけは「もしかしたら、ストーリーが進むと超爽快感のあるバトルに化けるのでは?」と思ったけど、そんなことはなかった。

中盤になっても終盤になっても、カメラは遠目の固定アングル中心で、迫力も爽快感も何もない。リアルタイムでスピード感はあるはずなのに、なぜコマンド選択のたびに時間が止まっていた過去作よりこんなに迫力がないのか・・・。

アトリエシリーズでは調合した強力な爆弾などをバトルで使うのが重要になるが、スキルやアイテム使用には、それぞれ「行動ポイント」というような独自の回数制限の仕組みがあり、これがかなりウザい。本当にウザすぎる。

アイテムは物理の法則を無視して、どれだけ使っても量が減らない一方、行動ポイントが枯渇するとスキルもアイテムも封印されて、地味な通常攻撃しか行えなくなる。

このポイント制の仕組みがあるせいで、バトルでは地味な通常攻撃を眺めることが多くなり、過去作のような必殺技ラッシュみたいのがあまりなくて、ラスボス戦くらいになっても、チマチマと通常攻撃で戦うことが多くて、全く盛り上がることなくラスボスを淡々と撃破した。

スーファミのFF5とかですら、ラスボスのトドメは無駄にバハムートを召喚してメガフレアをぶっ放していたけど、ライザのアトリエにはメガフレアに相当するものがない。少なくとも、俺のライザのアトリエには。

終盤のバトル難易度は過去作より優しい

育成でやりこみ領域に踏み込む場合は、きっと武器や爆弾に色々な特性を付けたりして、短期決戦を狙うような方向になるのであろうが、普通にクリアだけを目指す場合は、店売りのアイテムと、ほどほどの錬金アイテムだけでラスボス撃破ができる。

過去作みたいに、当たり前に最強の爆弾を複数作って全員に持たせたり、品質999とかのチート行為真っ青の通常装備作成は必要とならない。

それどころか、回復アイテムや蘇生アイテムもレシピがなくてロクに作れなかったし、爆弾もレシピを出すのが面倒で、一番初期型のショボい爆弾しか作れなかった。それでも難易度を下げれば普通にクリアできる。

レシピを出すのが過去作より面倒

アトリエシリーズの調合周りは、作品ごとに毎回違うが、ライザのアトリエはレシピを増やしていくのが面倒な仕組みになっている。

過去作だと店売りとかイベントで手に入る本を読むだけでレシピが覚えられたけど、ライザは本だけではなく、調合作業の中でレシピを増やしていくような方式になっている。

その作業に必要な素材を集めるのが、これまた面倒すぎるという欠点があり、仕方ないからレベル上げしつつ、金貯めて店売りのアイテムで何とかする・・・という、アトリエらしくない普通のRPGみたいなスタイルに切り替えたが、普通のRPGのような攻略が通用するバランスのようでもあった。

これはアトリエシリーズ風の育成や攻略手法になれていない新規参入者への配慮だろう。

それでもある程度は育成や強化が必要

「ネプテューヌ」や「閃の軌跡」みたいに、ゲームバランスの雑さを主人公補正でどうにかするような救済はなく、難易度を下げてもラスボスや一部の敵は、調合でキャラ強化を頑張らないと勝利が困難であった。戦闘は単調であるがこそ、うまく立ち回れないと苦痛に感じる場面が多い。

ポイント制のため短期決戦型であり、「閃の軌跡」と同じタイプのバトルなのかなと最初は思ったけど、閃と違って必殺技ラッシュみたいなのはないし、ライザのアトリエのバトルはひたすら地味なくせに、ただポイントでやれることが縛られているだけ。要するに、プレイヤーのストレス耐性テストであった。

そもそも、AIバトルとかロールとか、どっかでこういうボタン連打的な戦闘のゲームやったことあるなと思ったら、FF13とかFF15とかのタイプだった。画面がごちゃごちゃしていてよくわからないけど、適当にボタン押してるだけで、いつの間にか勝ってるか死んでるかしているだけ、というやつ。

ライザ、FF13、FF15に共通しているのは、育成した結果をプログラムに打ち込んで、結果だけ確認するタイプの戦闘だ。今までのアトリエとはあまりにも違い過ぎる。

ファストトラベルで冒険感は薄い

フィールドの移動は過去作ではゲーム内の日数が進んだり、作品ごとに様々だけど、ライザのアトリエではサザエさんとかと同じで、日付や年月という概念がない。

そのわりに「部屋で3日ほど待つ」みたいな進行フラグが頻繁にあって、意味のないゲームデザインだと思った。

街や拠点の移動は序盤からファストトラベルが可能で、中盤以降は全ての移動がいつでも可能な完全ファストトラベルとなる。普通だったら移動に何日もかかる場所に、一つの素材を手に入れるためだけに各地をファストトラベルで回ったりするのは、いかにもゲーム的すぎる。

シビアな日数制限に縛られていた過去のシリーズとは違って、新規プレイヤーに受け入れやすい方向にシフトしたとも言えるだろう。

朝、昼、夜とか時間経過が面倒臭い

日付の概念はないけど、時間帯の概念は存在する。

夜中は店で買い物で出来なかったり、イベントの進行に関わったりするのだろうけど、ファストトラベルで移動している間に時間が経過していて、買い物に行ったら夜中になってて出直す、とかストレスの原因になっていた。

採取道具の切り替えが面倒臭い

ソフィー2の天候操作とかも面倒臭いだけだったけど、ライザのアトリエでは、素材を採取する時の道具で手に入るものが変わるという面倒な仕組みがある。

植物を間違ってハンマーで叩くと植物エキスになってしまったり、採取アイテムの切り替えが地味に面倒だった。

新規参入者に優しい場面もあれば、変に複雑さにこだわっている部分もあったりする。

隠しボスが色違いで手抜き量産型

過去作の隠しボスはちゃんと個別にデザインされていたが、ライザの隠しボスはどいつもこいつも色違い系。

ストーリー上は倒す必要もないし、そもそも序盤から意味ありげに存在する「緑色のつむじ風」に乗れる作成が面倒な錬金アイテムがないと挑戦できならから、全員完全スルー推奨。

難易度設定を下げれば弱くなるし、攻略サイトでも推奨されているけど、腕試しの要素を弱くして挑戦するってなんか矛盾している。

どことなくソシャゲ的要素が多い

発売後のアップデートで時間をかければ誰でも簡単に武器強化できる機能が実装されたり、ソシャゲやスマホゲーム感が満載。

ソシャゲやスマホゲームに慣れている新規層をターゲットにしているのが明白だけど、攻略に大きく関わる部分をガラッと変えてしまう後出しアップデートを実装してしまうソシャゲ仕様。

探索地をパスワードでネット上の知らない他人と共有できたり、過去作にはないソシャゲ的なゲーム性が漂う。

キャラ人気や売上は高いがゲーム性はいずこに

ライザのアトリエはキャラクターの人気や売上は高いが、アーランドシリーズや不思議シリーズなど過去作の経験者からすると、調合という同じシステムを共有しているだけで、別シリーズのゲームのように思えてしまう。

過去のアトリエだと、ロリ、スレンダー、かわいい系の女性キャラが中心で、男性キャラが味方に加入しても、あくまで添え物扱いだった。

しかし、ライザのアトリエでは、そのアトリエの女子中心である伝統文化を継承せずに、新規プレイヤーに向けてラノベ風とでもいうべきノリで、男性キャラも普通にストーリー的に重要なキャラとして描かれている。

同じメーカーからBLUE REFLECTIONという、女子パーティーに全振りしたアトリエから派生したようなゲームが出ているからか、アトリエ本体は男女平等的になったのかもしれないけど、個人的には過去作からのアトリエファンとして、やはり同じアトリエシリーズとしては、ライザは受け入れられないなぁと思ったのであった。

戦闘や調合がバチクソ楽しいならまだしも、戦闘も調合もお世辞にも過去作より楽しくないし、特に戦闘は壊滅的だと思った。世間的にもキャラの評価だけが先に立ってしまっているぶん、戦闘とかゲームシステム自体の評価はあまり聞かないし、もしくは埋もれてしまっているというのもあるのだろうと思った。

PC & モバイル

現代の生成AIは最新技術のようで、実際には1960年代のAIの延長線上にあるAI

ChatGPTは現代を代表する最先端AIとして語られることが多い。どんな質問にも答え、専門家のように振る舞う。そのため「AIはここまで来たのか」と感じる人も少なくないだろう。

しかし、その仕組みを少し冷静に見てみると、意外な事実が浮かび上がる。GPTは見かけや規模こそ最新だが、考え方そのものは1960年代に研究されていたAIと本質的に同じ系譜にある。

1960年代のAIは何をしていたのか

1960年代から70年代にかけて、「専門家の判断を機械にやらせよう」という試みが行われていた。

当時のAIは「エキスパートシステム」と呼ばれ、医師や技術者の知識を細かいルールとして書き出し、それを順番に当てはめて答えを出していた。

一見すると賢く見えるが、実際には質問や回答の内容を理解しているわけではない。「もしAならB」「条件Cが成り立つなら結論D」という型をなぞっているだけで、自分の答えが正しいかどうかを自覚することはできなかった。

重要なのは、エキスパートシステムが「専門家のように振る舞う」ことを目的としていた点である。本物の理解や自律的な判断ではなく、あくまで外から見て賢く見えることがゴールだった。

GPTは何が進化して、何が変わっていないのか

GPTは昔のAIのように人がルールを一つ一つ書いているわけではない。大量の文章を読み込み、言葉の繋がり方を学習している。この点は大きな違いである。

しかし、GPTが最終的にやっていることはとてもシンプルだ。「この流れなら、次に来そうな言葉は何か」を計算し、それを並べているだけである。

つまり、仕組みは高度になったが、「自分が何を言っているのかを理解していない」という点は、1960年代のAIと変わっていない。

GPTが平気で間違える理由

ChatGPTなどの現代の生成AIは時々、もっともらしい嘘や誤情報を言う。それは真実を意識して話していないからである。

人間は「本当はこうだが、今は言わない」「これは間違っているかもしれない」と考えながら話す。しかし、GPTにはそのための基準がない。ただ、それらしく聞こえる文章を作っているだけなので、間違っていても自分では気づけない。

この性質は、昔の古い時代のAIが持っていた弱点と全く同じである。

映画『インターステラー』のTARSとの違い

映画『インターステラー』に登場するロボットTARSのAIは、GPTとは全く別の考え方で描かれている。TARSは状況を理解し、目的を意識し、そのうえで判断する。

TARSは「これは危険な選択だ」「今は真実を伏せるべきだ」といった形で、自分の状態を理解している。間違いが起きれば、それはTARS自身の判断ミスになる。

このような仕組みは、1960年代のAIにも、現代の生成AIにも存在しない。

TARSが性格を調整できるという意味

TARSにはユーモアや誠実さを数値で調整する設定がある。これは性格すら任務の一部として管理されているということを意味する。

一方、GPTは会話の流れやユーザーの指示によって性格が変わっているように見えるだけで、内部に性格という設定があるわけではない。ここにも、「主体」と「道具」の違いがはっきり表れている。

なぜGPTはこの形に留まっているのか

ここで注意すべきなのは、GPTが意図的に主体性を持たないよう設計されていると断定することはできないという点である。実際には、技術的、社会的な制約の中で、現在到達している段階がこの形だと考える方が自然である。

AIが自分の判断の正しさを理解し、誤りを自覚し、責任を引き受ける仕組みは、技術的にも社会的にもまだ研究段階にある。ハルシネーション、つまり、もっともらしい誤情報を生成してしまう問題についても、開発者や利用者の誰もが望んで許容しているわけではない。

現代の生成AIは、自己理解や自己検証を実現できていない未完成な技術であり、その限界がそのまま挙動として現れていると見るべきである。

現代の生成AIは最新技術を用いた研究段階の旧系譜AI

GPTは確かに便利で高性能な技術である一方、その仕組みは1960年代から模索してきた「専門家の知識を再現するAI」という流れの延長線上にある。

現在の技術水準では、自己理解や自己検証を備えたAIは研究段階にあり、GPTはその途中にある存在だと言える。

映画『インターステラー』のTARSのような、自分で判断し責任を引き受けるAIは、技術的にも社会的にも現時点ではフィクションの領域に近い。