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Web界隈には、共感文章プラットフォームなるものが存在している。
Webサイトを構築する専門技術がなくとも、誰でも簡単に記事を投稿でき、誰もが気軽に「スキ」や「いいね」を押せる、そんな場所だ。
日記、エッセイ、旅行記、ポエム、感情の吐露など、内容は問われない。問われるのは“共感されるかどうか”だけ。文章の構造も、語彙の深さも、風景の描写も、感情の掘り下げも、すべては「反応されるかどうか」の前では二の次になる。
結果として、そこに並ぶ文章は似通ってくる。「泣いた」「癒された」「救われた」「懐かしい」というような、感情のテンプレートだ。
そして、旅行記は人脈とグルメの報告書に成り果てる。
群れてるくせに一人旅を名乗るな
「今回は一人旅です」と前置きしながら、地元の友人と再会し、昔の同僚と飲み歩く。それのどこが“一人”なのか。自分と向き合うどころか、旅の主軸が人との再会と交流。
旅じゃなくて人脈巡礼である。風景は背景にされ、感情は演出され、文章は反応狙いの装置に成り下がる。
「この景色を見ながら、あの人のことを思い出した」「この場所で、昔の仲間と語り合った」などと書いて、旅を“反応を取りに行くための装置”に変える。
胃袋の記録を“旅”と呼ぶな
一人旅のはずなのに人と会いまくる旅行記が残念なのは当然として、最近さらに気づいた。グルメしか語ってない旅行記も、同じくらい残念だ。いわゆる“食べログ”タイプである。
「○○で△△を食べました。雰囲気も良くて、駅から近くて、店員さんも優しくて、絶対美味しいから食べてみて!」がテンプレート。
もう旅じゃなくて食事記録の報告である。「絶対美味しいから食べてみて!」って、誰に向けて言ってんだよ、と思う。お前の舌は世界標準か?お前の好みは万人共通か?
そんなはずないだろう。読者の予算も嗜好も知らない。なのに勧める。“おすすめ”じゃなくて、「いいね」ボタンのための“共感の強要”である。
共感されたいだけの感情ポエム
旅先の食べ物を語ること自体は否定しない。だが、食べ物しか語れないなら、それは旅じゃない。風景を見て何を感じたか。その土地の空気にどう揺れたか。そういうものがないなら、ただの“移動する胃袋”だ。
共感文章プラットフォームの構造がそれを助長する。「美味しかった」「感動した」「癒された」など、反応されやすい言葉を並べて、実際には中身は空っぽ。旅の記録を名乗りながら、“食べたもの紹介”と“感情のテンプレ”のワンセット。そんな文章に風景はない。孤独もない。読者の記憶にも残らない。
俺はもう、共感文章プラットフォームの旅行記を読まない。
一人旅を名乗りながら群れ、旅を語りながら胃袋の話だけ。感動は共感されるためのものではない。感動は自分の中で揺れるもの。そして、食べ物は風景の代わりにはならないのだ。
「絶対美味しいから食べてみて」 この一言がすべてを物語っていることに気付かないとならない。








