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本当に食べ物が美味しかった都道府県ベスト5 ~観光地価格を排除したリアルランキング~

俺の味覚を参考にしていいかどうかは別にして、全都道府県を旅したことのある俺が考える「食べ物が美味しい都道府県ベスト5」を発表する。

当然ながら、観光地価格で高いだけの食事を提供する傾向が強い場所は問題外だから、そういうのは徹底的に排除している。

5位 大阪府 食い倒れの街はダテじゃない

東京の飲食店は高い金を出さないと不味いものを提供されることが多く、むしろオフィス街のランチでは高い金を出しても不味いものを出されることが多い。だが西に目を向ければ、大阪は食い倒れの街というだけあって、庶民的で美味しい食べ物にありつけることが多い。

お好み焼き

小麦粉の生地にキャベツや肉、海鮮を混ぜて焼き、ソースとマヨネーズで仕上げる大阪の定番。

たこ焼き

小麦粉の生地にタコを入れて丸く焼いた料理。トロッとしているのが大阪の特徴。

4位 鹿児島県(奄美大島) 沖縄料理風と地元料理の競演

地理的には沖縄県に近く、かつては琉球の一部だった奄美大島にはオリジナルの郷土料理のほか、沖縄料理風の奄美大島料理が存在する。

稀に旅行通ぶっている人間の中には沖縄県だと勘違いしている者もいるが、奄美大島は鹿児島県の島である。

鶏飯(けいはん)

鶏肉、錦糸卵、漬物などをのせたご飯に鶏ガラスープをかけて食べる奄美の郷土料理。

油ゾーメン

素麺を油で炒めた料理。沖縄のソーメンチャンプルーを思わせる。居酒屋などでも食べられる。

3位 沖縄県 外国料理と沖縄料理のチャンプルー

アメリカやメキシコなどの外国料理を沖縄風にアレンジした料理や、琉球時代からの伝統料理、伝統菓子が観光客向けではなく地元レベルで当たり前に食べられる。

その味は好き嫌いが分かれるらしいが、合う人間にとっては高い送料を払ってでも取り寄せたいほどのものが多い。

ゴーヤチャンプルー

ゴーヤと豆腐、卵、豚肉を炒めた沖縄家庭料理。苦味がクセになる。

タコライス

ご飯の上にタコスの具材(ひき肉、チーズ、レタス、サルサ)をのせた沖縄発祥の料理。

タコス

沖縄ではアメリカ文化の影響で広まった定番。皮はソフトタイプが多く、地元流にアレンジされている。

2位 新潟県 食べきれないほどのB級グルメと本格グルメ

主にB級グルメが安くて美味しい米どころ。米が美味しい所は日本酒も美味しいし、米をおかずに米を食べられる唯一の都道府県。

B級グルメは新潟っ子の定番イタリアンや、バスセンターのカレーが筆頭格。タレカツ丼や海鮮丼などちゃんとしたグルメも食べきれないほどある。

みかづきのイタリアン

焼きそばにトマトソースをかけた新潟独自のB級グルメ。名前は「イタリアン」だが麺は和風。

バスセンターのカレー

新潟市中心部のバスセンターで提供される黄色いカレー。辛さと懐かしさで地元民に愛される。

タレカツ丼

薄めのカツを甘辛い醤油ダレにくぐらせてご飯にのせる、新潟の定番丼。

北海道(道東) 地元民のリアルな日常料理

北海道と言っても日本の国土の1/4は北海道だから、道東地域と書き加える。

釧路のスパカツ、豚丼、インデアンのカツカレーだけで、俺の好きな食べ物ベスト5に入るくらいだから、いかに食べ物が美味しい地域かというのがわかるだろう。

根室に足を延ばせばエスカロップもあるし、北海道に近年大量に押し寄せる中国人観光客の味覚には合わないのか、地元ガイドブックで取り上げられないのか、これらの店では彼らに席を独占されることがないのもポイント高し。

スパカツ

釧路発祥の名物。鉄板にスパゲッティを盛り、その上にカツを乗せて熱々のミートソースをかけた豪快料理。

この豚丼の豚丼

帯広を中心に広まった豚丼。甘辛いタレで焼いた豚肉を丼飯に豪快にのせる。

インデアンのインデアンカツ

帯広に本部がある人気カレー店「インデアン」の定番で釧路にもある。濃厚なカレーに揚げたてカツをトッピング。

エスカロップ

根室のご当地洋食。バターライスの上に薄いトンカツをのせ、デミグラスソースをかけた一皿。見た目は洋食だが、地元では昔から親しまれている庶民派料理。

地元の味こそが美味しい料理の真髄

旅行ガイドの推薦メニューに惑わされず、地元の人間が日常的に食べている料理こそ「本当に美味しい食べ物」だ。

北海道のスパカツ、新潟のイタリアン、沖縄のタコライス、奄美大島の鶏飯、大阪のお好み焼き。どれも観光客向けの見せかけではなく、生活に根付いた味だ。

結局、食の本当の価値は「地元の日常」にある。

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ご当地グルメの演出と虚構 ~長崎・佐世保で“名物料理”を食べ歩いて感じた演出の限界~

観光地の“ご当地”グルメは、語られすぎている。パンフレットには「地元の味」「伝統の逸品」と書かれているが、実際に口に運んでみると、語るべきものが何もない料理が並んでいた。

長崎・佐世保の街に降り立ち、名物とされるグルメを食べ、観察して歩いた。レモンステーキ、佐世保バーガー、トルコライス、甘い刺身醤油──どれも“名物”の皮をかぶっていたが、中身は演出の残骸だった。

地元民が食べない名物。語らない料理。そして、観光客のスマホに収まるためだけに存在する味。

この旅は、味覚の記録ではない。“名物”という言葉の限界を確かめるための批評的巡礼だった。そして見えたのは、語られすぎたグルメと、語られない街の静けさだった。

名物グルメが創り出す演出の構造と罠

観光地に降り立つと、まず目に入るのは“名物”の看板だ。“ここでしか食べられない”と謳われる料理たち。だが、それらは本当に“語る”料理なのか。あるいは、ただ“演じている”だけなのか。

名物とは、風景の代用品だ。食べることで土地に触れた気になれる。だが、その構造は、しばしば空虚だ。味よりも見た目の華やかさ、素材よりも物語、調理は演出。皿の上にあったのは、食文化ではなく、観光演出の成れの果てだった。

“ここでしか食べられない”という言葉は、しばしば“ここでしか通用しない”という意味にすり替わる。演出料理は、土地の文化を語るフリをして、土地の消費を促す。それは、料理の皮をかぶった広告であり、味覚のフリをした記号だ。

俺はその皿を前にして、食べることを躊躇した。食べるとは、受け入れることだ。“誰に向けて”が曖昧な料理は、ただの演出装置であり、味覚の空白だ。

名物グルメの虚構は、観光地の演出装置の一部である。その構造を解剖することで、“食べる”という行為の意味を問い直すことができる。皿の上にあるのは、味ではなく、物語の不在だった。

トルコライス 構造過多の皿、物語不在の終末

長崎名物「トルコライス」は二度と食べたくない料理

営業中の札は出ていた。俺はそれを確認して入店した。営業時間もGoogleマップで確認していた。だが、誰にも気づかれなかった。カウンターの向こうでは、店主がパソコンに向かっていた。背中だけが見える。こちらを振り向く気配もない。挨拶もない。“営業中”とは、誰に向けた言葉だったのか。

しばらくして常連客が入ってきた。店主は笑顔で迎え、世間話を始めた。「○○さん、いつものでいいですか?」「この前の旅行どうでした?」声のトーンが違う。空気が違う。その横で、初見の客は放置される。視線も言葉も寄越されない。一見客に対しては“営業中”ではない。

そして出てきたのが、トルコライス。カツ、ピラフ、スパゲティ。三つの主役が一皿に同居する構造過多の料理。それぞれが自己主張し、互いに譲らず、物語は始まらない。

“異国情緒”という言葉で包まれた混沌。だがその混沌は、文化の交差ではなく、ただの盛り合わせだ。ピラフはピラフとして、スパゲティはスパゲティとして、カツはカツとして存在している。共演ではなく、同居だ。

この料理は、観光地の演出装置としては優秀だ。写真映えする。ボリュームがある。話題になる。だが、語るべき物語がない。そして俺は、無言で提供されたその皿を前にして、食べることを躊躇した。

料理を出すときも、常連には「お待たせしました〜」と柔らかく、こっちには皿を置くだけ。接客の温度差が露骨すぎて、食欲が失せる。

常連を大事にするのはいい。だが、初見客を雑に扱っていい理由にはならない。「うちは常連さんが多いんで〜」という言い訳は、ただの排他性の正当化だ。それは“アットホーム”じゃない。最初から“常連専用”と看板に書いておけ。

飲食店は、料理を出す場所である前に、客を迎える場所であるべきだ。「接客が丁寧」とか「笑顔が素敵」とか、そんな理想論は要らない。最低限の礼儀を守れ。客が来たら、まず気づけ。まず迎えろ。

だから、外食が嫌いだ。料理が美味しくても、接客が腐っていれば全てが台無しになる。食事は味だけじゃない。空間と人間が、味を殺す。無礼な接客に金を払うくらいなら、コンビニ飯の方がよほど誠実だ。

トルコライスとエスカロップ “似ている”という暴力

毎日でも食べたい似て非なる根室名物のエスカロップ

ド素人でも誰でも専門家気取りで編集可能なフリー百科事典のWikipediaには「トルコライスはエスカロップによく似ている」と書かれている。

だが、それはあまりに乱暴なまとめ方だ。似ているのは“盛り方”だけで、思想も文脈もまるで違う。エスカロップは、北海道・根室の洋食文化の中で生まれた料理だ。豚カツやエビフライとバターライスという構成は、明確な主従関係を持ち、皿の上に秩序がある。エスカロップは“整っている”。

一方、トルコライスはどうだ。カツ、ピラフ、スパゲティ。三者が同時に主張し、譲らず、皿の上で衝突している。構造過多。文脈不在。演出優先。それは“異国情緒”という曖昧な言葉で包まれた、観光地のための記号的料理であり、文化の交差ではなく、ただの盛り合わせだ。

“似ている”という言葉は、時に暴力になる。皿の上の構造を見ただけで、料理の思想を述べるのは無理がある。エスカロップとトルコライスは、全く似ていない。

レモンステーキ牛丼 名物の名を借りた廉価版

その名を聞いた瞬間、俺は警戒した。名物と大衆食の合成。それは、文化の交差ではなく、価格帯の妥協だ。

出てきたのは、牛丼の器に盛られた薄切り肉。スーパーの精肉コーナーで見かけるような薄切り肉だ。器にレモンが添えられている。爽やかさの演出。だが、それは肉の貧しさを覆い隠すための演技にすぎない。

その暴力的な構造の中で、レモンステーキは名物の名を借りたまま、語ることをやめた。

本来、レモンステーキは鉄皿の上で音を立てる料理だった。だが、牛丼の器に収まった瞬間、音も熱も失われた。残ったのは、名物の皮だけ。中身は、“とりあえず名物っぽい”という発想の残骸。

俺は食べた。だが、味は残らなかった。残ったのは、“名物”という言葉が、ここまで安く使われていいのかという疑問だけだった。

佐世保バーガー 王の座に君臨した虚構の産物

観光パンフレットでは、レモンステーキと並んで“佐世保ご当地グルメの王”として君臨しているのが佐世保バーガー。1950年代に米海軍基地からレシピが伝わったのが始まりらしい。

だが、地元民が食べている様子はそれほど感じられない。理由は単純だ。高すぎる。昼飯に千円以上払うほどの物語が、そこにはない。

「アメリカでも出店してくれ」と米兵が言うほどの味らしいが、それは母国のジャンクフードよりマシという意味であって、地元民や観光客にとっての“名物”とは別物だろう。

アーケード街で見かけた範囲では、食事時でも客が1人か2人程度しかいない店が多かった。名物のはずなのに、名物を食べる人がいない。隣のマクドナルドに、地元の高校生や家族連れが吸い込まれていく。彼らは“名物”ではなく、“現実”を食べている。

地元民の胃袋に収まるのではなく、観光客のスマホに収まる。食べられるより、撮られるために存在しているのではないか。

長崎皿うどん 語らない麺、語りすぎた名物の空転

皿うどんを食べた。いや、正確には、ベビースターラーメンに似た何かにあんかけがかかっていたものを、半端なビジネスホテルの朝食で出されたから仕方なく食べた。

長崎で最も意味不明な料理が皿うどんだ。それは“料理”ではなく、構造のない演出だった。麺は語らない。パリパリという音だけが先行し、味覚は置いてけぼりになる。あんかけは何かを包み込むはずのものだが、ここでは何も包んでいない。具材の意味も、出汁の設計も、すべてが曖昧だった。

皿うどんは“長崎名物”とされる。だが、名物という言葉が先に立ちすぎると、料理は演技になる。この皿うどんもそうだった。“地元らしさ”のふりをした、味覚の空白だ。食文化とは、土地の記憶を翻訳する行為だが、この料理は翻訳に失敗していた。麺は語らず、あんは濁り、皿の上には“意味のない演出”だけが残った。

それは、朝食という名の儀式の中で、食べる理由を見失った料理だった。名物のふりをしたまま、語らずに消えていく。そんな皿が、今日もホテルのバイキングに並んでいる。

佐世保の刺身 レモンと水飴が創造した味覚のディストピア

エレナ(佐世保ではイオンよりも幅を利かせている地場スーパー)で刺身を買ったら、当たり前のようにレモンが添えてあった。

レモンステーキに毒されたのか、この土地の刺身にはレモンが添えられているのが普通。意味がわからなかった。それは“爽やかさ”という演出のつもりかもしれないが、刺身に必要なのは爽やかさではなく、静けさだ。レモンを添えるだけで、味覚の文脈が崩壊する。

そして、醤油。甘い。水飴と砂糖が入っている。刺身にとろみと甘さを足すという発想が、すでに裏切りだ。醤油は、刺身の輪郭を際立たせるための道具であるべきだ。シャープで、すっきりしていて、余計な感情を持ち込まない。だが、この醤油は違った。刺身に語らせない。

長崎の地形は複雑だ。海と山が交差する。風景にはシャープさがある。なのに、醤油にはそれがない。土地の輪郭と、醤油のシャープさが一致していない。

刺身は語る料理だ。だが語るためには、語らせる環境が必要だ。レモンと水飴が、その環境を破壊する。

長崎、佐世保の日本酒 着地点を見失った残像

長崎県内や佐世保で造られている日本酒を飲んだ。だが、口に含んだ瞬間、味が滲んだ。輪郭がない。キレがない。どこにも着地しない。

日本酒とは、米と水と発酵の緊張感でできているはずだ。だが、この土地の日本酒にはその緊張感がない。緩い。曖昧。語らない。それは“飲みやすさ”ではなく、“語らなさ”だ。語るべきことを、酒が拒んでいる。

思い出すべきは、九州が焼酎の本場であるという事実だ。気温が高く、日本酒造りには向かない。この土地で無理に日本酒を造ることは、気候と文化の翻訳に失敗するリスクを孕んでいる。

それは、“地元らしさ”という演出のために造られた液体だった。俺は飲んだ。何度か、銘柄を変えてみた。だが、どれも着地点が見当たらない。違いはあるが、違いの意味がなかった。

日本酒は語る酒だ。語るためには、切れ味が必要だ。佐世保の日本酒は、語らない。ただ、口の中に居座る。

イオンのレンチンもつ鍋 食べる前から終わっている料理

冷蔵棚の隅に、もつ鍋があった。値引きシールが貼られていた。赤いシールは、救済ではなく演出だった。“お得”という言葉で、食べる理由を補強しようとしていた。

レンチンした。湯気は立った。見た目は整っていた。だが、口に運んだ瞬間、すべてが崩れた。脂が重い。出汁が濁っている。もつは語らない。それは“こってり”ではなく、“処理されていない”という感覚だった。味覚が拒否する。箸が止まる。

この鍋は、食べる前から終わっていた。語るべきものがない料理は、ただの演技だ。値引きされていたから買った。だが、値引きされていたのは、味覚の尊厳だった。

俺は食べた。だが途中でやめた。それは、“食べられない名物”のさらに下にある、“食べる理由のない食品”だったからだ。

パンフレットの中で完結する料理たちの矛盾

皿の上にあったのは、土地の記憶ではなかった。それは、“名物”という言葉に寄りかかった演出の残骸だった。語らない料理。語られすぎたパンフレット。そして、食べることが“体験”にすり替えられた風景の中で、味覚は置き去りにされていた。

観光地グルメは、もはや“食”ではない。それは、撮られるために整えられた舞台装置であり、地元の声を失った演技だ。だが、演技には限界がある。語るべきものを持たない料理は、いずれ沈黙する。

食べ歩いた先に残ったのは、満腹感ではなかった。“名物”という言葉が空転する音と、語られなかった土地の静けさだった。

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弁当の漬物と梅干よ、そこにいる必要性あるのか? 作る側の都合にしか思えない理由

画像はイメージ

コンビニ弁当、駅弁、スーパーの総菜。

どれにも高確率で入ってる“漬物”と“梅干”。ちょこんと乗ってるだけなのに、存在感だけは一丁前の色付きノイズ。

俺は思う。

「それ、誰が喜んでるんだ?」と。

漬物=彩り要員?

ただの“見た目だけの添え物”だろう。

「彩りが欲しいから」
「味にアクセントを」
「箸休めに最適」

そんな言い訳を並べるが、実際はどうだろう?

・味が濃すぎて主菜と喧嘩する
・酸味が浮いててご飯と合わない
・しかも、弁当の中で異臭を放つ

食べない人が多数派なのに、なぜ入れ続ける?

漬物を残す人、実はかなり多い。なのに、なぜか弁当業界は入れ続ける。それ、思考停止の惰性じゃないか?

梅干に至っては、苦手な人にとっては迷惑な存在でしかない。周囲の赤く染まった米をえぐり取って捨てないとならない。

「昔からそうだから」
「見た目が寂しいから」
「コストが安いから」

その理由、全部“作る側の都合”でしかない。食べる側の声を無視して、ただ習慣で入れてるだけ。

思考停止と言わず、なんと言えばいいだろう。

結論 弁当の漬物と梅干は“自己満足の象徴”である

俺は言いたい。

漬物や梅干を入れる前に、その弁当の構成を見直してくれ。

本当に必要なのか?
味のバランスは?
食べる人の好みは?

それすら考えずに漬物や梅干を突っ込むのは、ただの思考停止。自己批判すべきだ。

「漬物や梅干を入れることで、弁当を買う人を喜ばせているか?」と。

答えが「NO」なら、その漬物と梅干に存在する必要性はない。俺には無意味な酸味と色に付き合う義理はないのだ。