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なぜ日本企業はExcel Onlineのような高度なWebアプリを開発できないのか

画像はホットサンドのイメージ

Webブラウザ上で動くExcel OnlineやGoogleスプレッドシートのような高度なWebアプリは、日本でも海外でも、今や日常的に使われている。

しかし、日本企業から同じレベルの高度なWebアプリが生まれた例はほとんどない。

これは「日本人エンジニアの技術力が低いから」という単純な話ではなく、文化や投資の前提が根本的に違うためだ。

この記事では、日本企業が高度なWebアプリを生み出せない構造的な理由を整理していく。

日本と海外では技術への投資規模が桁違い

Excel Onlineのような高度なWebアプリは、数百人規模のエンジニアが10年以上かけて開発し続けている。その裏には、クラウド基盤、データセンター、分散システム、リアルタイム同期など、国家プロジェクト級の投資がある。

一方、日本企業のWebアプリ開発と言えば、予算が数百万円〜数千万円程度、期間は数ヶ月、チームは数名〜十数名という規模が一般的だ。

しかも「リリースしたら終了」という文化が根強く、継続投資の前提がない。この時点で、日本と海外勢は全く別の競技をしていると言っていい。

要件定義→外注→納品のウォーターフォール構造が限界を生む

日本企業の典型的な開発フローは、企画担当が要件を作り、SIerに丸投げし、下請けが実装し、納品して終了という完全ウォーターフォール構造だ。

この構造では、継続改善ができず、技術的負債が積み上がり、高度なアプリを育てていく文化が生まれない。

一方、MicrosoftやGoogleは、自社で企画し、自社で開発し、自社で改善し、10年以上も継続投資するというプロダクト開発文化を持つ。日本企業とは構造そのものが根本的に違う。

失敗を許容しない日本文化がイノベーションを阻害する

Excel OnlineやGoogleスプレッドシートは、何度も失敗し、何度も作り直し、長い赤字期間を経て今の形になっている。失敗を前提にした改善サイクルがあるからこそ、巨大で複雑なアプリが育つ。

しかし、日本企業は失敗NG、予算は年度単位、1年で成果を求める、途中で仕様変更NGという文化が根強い。失敗を許容しない組織では、イノベーションは生まれない。

エンジニアが評価されない国では高度な技術が育たない

海外ではエンジニアは高給の専門職であり、技術責任者であるCTOが経営の中心にいることも珍しくない。技術が会社の競争力そのものなのだ。

日本ではエンジニアは下請けや作業者、外注や派遣扱いで、技術者よりも営業が偉く、技術投資よりコスト削減が優先される文化がある。

Excel Online級のアプリを作るには、分散システム、リアルタイム同期、大規模クラウド、高度なアルゴリズムなどのトップレベルのエンジニアが必要だが、日本ではその人材が評価されず、育ちづらい。

日本企業は世界で使われるプロダクトを前提にしていない

Excel OnlineやGoogleスプレッドシートは、世界数億ユーザー、24時間稼働、多言語対応、巨大トラフィックを前提に設計されている。

日本企業のWebアプリは、国内限定、数千〜数万ユーザー、小規模トラフィックが前提だ。スケールの前提が違えば、設計思想もまったく異なる。

日本はWebデザイン文化、海外はソフトウェア開発文化

日本のWeb界隈は、Webデザイン中心の文化で発展してきた。

HTML、CSS、軽いJavaScriptといった領域が主流で、これはこれで一定のノウハウを必要とするものの、本格的なWebアプリ開発とは別のスキルセットである。

一方、Excel OnlineやGoogleスプレッドシートのような高度なWebアプリは、仮想DOM、Canvas、WebSocket、分散データ同期、大規模クラウド、計算エンジンなど、完全にソフトウェア開発の領域に属する。

日本では、この領域のエンジニアを育てるルートが限られており、新卒一括採用文化の影響で、理系大学や大学院で専門教育を受けた人が中心になりやすい。

一方、海外では学歴以外のルートが一般的で、ブートキャンプや独学でエンジニアになる人も多い。

つまり、日本と海外では基盤となる環境そのものが異なるため、日本のWeb界隈の文化は、海外のようなソフトウェア開発中心の方向には発展しなかったと言える。

海外エンジニアの学歴事情

海外(特にアメリカ、カナダ、ヨーロッパ)は、学歴よりもスキルと実績、ポートフォリオが圧倒的に重視される文化。

海外のエンジニア調査では、学歴なし(高卒、中退、ブートキャンプ、独学)が3〜4割を占めるというデータが複数ある。海外では学歴なしエンジニアは“少数派”ではなく“普通にいる層”と言える。

大企業(Google / Meta / Amazon / Microsoft)

学歴があれば有利だが、学歴なしで入っている人も普通にいる。実務経験、GitHub、コーディングテストの結果が最重要。

アメリカ

学歴なしエンジニアも大量にいる。ブートキャンプ卒が普通に就職している。

カナダ

アメリカより学歴志向が弱い。実務経験が最重要。

イギリス

学歴は“あれば良い”程度。スキル評価が中心。

ドイツ

伝統的に学歴重視だが、ITは例外。実務経験があれば学歴なしでも採用される。

オーストラリア

学歴より職歴。移住ビザでは学歴が点数に影響することがある。

日本

理系大学、大学院で情報系を専攻した人が有利。未経験から高度なWebアプリ開発に進むルートは海外より限定的。

日本企業が作れないのではなく、そもそも作れる構造が存在しない

Excel OnlineやGoogleスプレッドシートのような高度なWebアプリは、技術力だけで作れるものではない。

必要なのは、巨額の投資、教育、長期的なプロダクト開発文化、失敗を許容する組織文化、エンジニアを中心に据えた評価制度、世界規模のスケールを前提とした設計など、これらが揃って初めて、あのレベルの高度なWebアプリが生まれる。

日本企業が同じようなアプリを作れないのは、技術者の能力不足ではなく、作れる環境がそもそも存在していないという構造的な問題が原因だ。

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EZ DO DANCEの8cmシングルを持っている俺はどう考えても勝ち組だと思う

ぶっちゃけベースで言うと、正直、7″ MIXを持っているという事実だけで、俺は世の中の大半の人よりも相当な優越感がある。

アルバム版しか知らない人とは、そもそも聴いている音が違う。EZ DO DANCEのシングル盤に収録されている7″ MIXは、今となってはシングルでしか確実に手に入らない“本物のEZ DO DANCE”だ。

配信はもちろん、アルバムやベスト盤で聴ける音源は、再ミックスされた別バージョンが多く、ステレオの定位が反転していたり、全体のバランスが変わっていたりする。

つまり、世の中の多くの人が聴いている「EZ DO DANCE」は、実は本来の「EZ DO DANCE」ではない。そう考えると、シングル盤を持っているという事実だけで、すでに世間一般の人よりも俺は、一歩どころか、二歩も三歩もリードしている気分になる。

物理シングルは再生産されないから価値が落ちない

8cmのCDシングルは再生産されることがまずない。そして、状態の良いものは年々減っていく。

配信は便利だが、ミックス違いを正確に区別してくれないことが多く、音源の原典性はどうしても薄れる。手元にあるシングル盤は、単なるCDというだけではなく、時代そのものを閉じ込めた記録媒体としての価値を持ち続ける。希少性は上がる一方なので、所有しているだけでちょっとした優越感がある。

しかも、TRFは90年代J-POPの象徴だから、資料的価値も高い。EZ DO DANCEの本来の姿が刻まれた音源を持っているというのは、完全に勝ち組ポジションなのは明白だ。

小室作品はシングルとアルバムでミックスが違うのが特徴だから、シングル盤を持っている人は「本来の音を持っている側」という扱いになる。

7″ MIXはシングルでしか聴けない価値がある

7″ MIX はシングル用に最適化された明瞭ミックス。発売当時のラジオやTV向けの公式基準音源であり、アルバム版とはミックスが別物なのだ。

つまり、シングル盤だけが本来のEZ DO DANCEの音を持っている。配信やベスト盤では別ミックスが入っていることも多いから、シングルを持っている=唯一確実な原典を持っているという状態。

これは普通に勝ち組だと言えるのは間違いない。

アルバム版は作品全体の流れに合わせた妥協ミックス

アルバム版は、アルバム全体の音量や質感に合わせて、やや落ち着いたバランスになっている。

ボーカルが7″ MIXより少し奥にあり、シンセの広がりが強調されていて、低音がやや丸い。全体が“空間的”に聴こえるのがアルバム版の特徴だ。つまり、アルバムの中で馴染むように妥協的なミックスとなっている。

そして、最大の違いは全体のノリだ。7″ MIXはダンスフロア向けで前に突き出す感じ。アルバム版はリスニング向けで、空間的に広がる感じ。同じ曲でも、体が反応するリズムの感じ方がまるで違う。

つまり、同じ曲の別ミックスではなく、実質的に別の曲と言っていいくらいだ。

90年代の空気ごと所有している感覚がある

シングル盤を手に取ると、ジャケットのデザイン、紙質、歌詞カードの雰囲気、すべてが90年代の空気をまとっている。

配信では絶対に味わえない“物としての存在感”がある。音だけでなく、90年代当時の文化や空気感まで含めて所有しているような感覚があって、それがまた心地いい。音楽を聴くという行為が、単なる再生ではなく、体験として成立する。

勝ち組という言い方もできるし、“正しい音を持っている側”という表現の仕方もできると思う。

結論 EZ DO DANCEのシングル盤を持っている俺は勝ち組

7″ MIX という本来の音を持っていること、物理シングルの希少性、そして90年代の空気ごと手元にあるという満足感。

これらを考えると、どう考えても「EZ DO DANCEのシングルを持っている俺は勝ち組」と言いたくなる。

これからも大切にしていくつもりだし、この感覚はきっと、ずっと変わらない。

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東京の地下鉄が不自然に曲がりくねって非効率に思える路線形状ばかりの理由

行き場を失くしたかのように都心部で顔を出す東京メトロ丸の内線

東京の地下鉄は路線図を見ると「どうしてこんなにクネクネと曲がりくねって、わざわざ遠回りしやがって、しまいにUターンまでするのか?」とイラつくほどに不自然な形状をしている。

だが、これは設計が失敗したというよりは、江戸時代から大都市として発展していた街に後付けで地下鉄を押し込んだという歴史的な事情が大きい。海外の大都市にも似た例は見られるが、国内の他の都市と比べると、東京は特殊な条件下で地下鉄を作ったというのが鮮明になる。

東京の地下鉄は既存の大都市に後付けで建設

1920年代に東京で地下鉄の建設が始まった頃、すでに東京は道路や建物、上下水道や電線でぎっしりだった。地下鉄はかろうじて空いている隙間を探しながら造るしかなく、鉄道にとって理想的な線形で、真っ直ぐ造れる場所はあまり残されていなかった。

この状況は19世紀から地下鉄の建設を始めたロンドンに似ている。ロンドンも既存の大都市の地下に建設したため不自然な曲線が多い。パリも同様で、古い街並みの下を縫うように走るため、路線は複雑な構造となった。

一方、戦後に都市計画が進んだ札幌は、碁盤目状の道路が広く整備されていたため、地下鉄も直線的に通すことができた。名古屋も広い道路が多く、地下に余裕があるため、東京ほどは混雑に悩まされていない。大阪は東京より古くから栄えている都市だが、都市密度が東京ほどではなく、曲線はあるものの東京ほどのカオス感は生まれなかった。

東京の地下には避けるべきものが多すぎる

東京の地下は、世界でも屈指の複雑さだ。既存の地下鉄、JRのトンネル、巨大な下水道、暗渠(埋められた川)、地下街、ビルの基礎杭など、避けなければならないものが無数にある。

ニューヨークも地下構造物が密集しており、実際のトンネルは曲線だらけだが、路線図は直線的に描かれているため気づきにくい。ソウルも地下街や既存インフラが多く、避けるべきものが多い都市だが、それでも東京ほど地下が混雑している状況ではない。

名古屋や福岡の地下街は大規模だが、東京ほど多層構造ではないため、路線は比較的素直に通る。横浜も地下街はあるものの、東京のように地下鉄の上と下に別の地下鉄が重なるような状況ではない。神戸は山と海に挟まれているが、地下のインフラ密度は東京ほどではなく、京都や仙台も地下構造は比較的シンプルだ。

需要に合わせて駅を建設したから線路が曲がる

東京は商業地、住宅地、大学、官庁街が広範囲に散らばっている。地下鉄はそれらを効率よく結ぶために、ある地点と別のある地点を最短距離で結ぶというより、需要を細かく拾うルートを優先した結果、路線が曲がりくねったという見方もできる。

札幌や仙台、福岡は中心部がコンパクトで、名古屋も中心部が明確。京都や神戸も都市構造が比較的明確で、東京ほど需要の散らばりには悩まされていない。

競合を避ける縄張り争いで路線が歪んだ

東京はJR、都営地下鉄、東京メトロ、そして多数の私鉄が入り乱れる世界でも珍しい鉄道密集都市だ。各社が互いの路線と競合しないように微妙にルートをずらした結果、本来は直線で行ける区間が歪に曲がることが多かった。

パリやロンドンも複数の事業者が関わった歴史があり、競合を避けるために路線が微妙に曲がることはあるが、東京ほど入り乱れていはいない。国内の地下鉄がある他の都市では、JRや私鉄など他の事業者との競合は少なく、東京のように縄張り争いが発生する状況にはなりにくかった。

都心の皇居を避けて建設する必要があった

東京の地下鉄が大きく曲がる理由の中でも、皇居の存在は極めて特殊で、他都市にはほとんど見られない制約だ。

皇居は東京都心のド真ん中に位置し、広大な敷地を持つが、皇居の地下を掘ることはできない。その結果、東京の中心部では路線が皇居を大きく迂回する形になり、多くの地下鉄路線が皇居を避けるように不自然に回り込んで走っているのはその象徴だ。

この都心の巨大な空白地帯は、札幌や名古屋、福岡のように中心部をまっすぐ地下鉄で貫ける都市とは決定的に異なる。大阪や京都にも歴史的建造物は多いが、皇居ほど広大で絶対に避けなければならない中心部の空白地帯は存在しない。

世界の都市と比べても、皇居のような存在は珍しい。ロンドンにはバッキンガム宮殿があるが、皇居ほど広大ではなく、都市の中心を完全に遮断するほどではない。パリのエッフェル塔やルーブル美術館も同様で、地下鉄は比較的自由に通せる。ニューヨークのセントラルパークは広いが、地下鉄はその下を通っており、皇居のような絶対不可侵の領域ではない。ソウルの景福宮は歴史的建造物だが、皇居ほどの規模ではなく、都市構造への影響も限定的だ。

東京の地下鉄の不自然な曲がり方を理解するうえで、この皇居の存在は欠かせない要素になっている。

新しい路線ほどカーブだらけで走行音がうるさい

東京の地下鉄の中でも比較的新しい2000年に全線開業した大江戸線は、車内の騒音が大きいというという声がよく上がる。

大江戸線は急カーブが非常に多い。これは後発であるがために東京の地下深くを通るとはいえ、既存の地下構造物を避けながら建設したという事情がある。カーブや下り坂では、車輪とレールの摩擦が増え、金属音が響きやすい。

そして、トンネルが小さいことが騒音をさらに増幅する。通常の地下鉄トンネルが内径6.2m前後なのに対し、大江戸線は約4.3mと断面が狭いため、走行音が逃げ場を失い、壁に反響して増幅される。コロナ禍で換気のために窓を開けて走行した時期には、100デシベル以上に達した区間もあったというが、これはパチンコ店や工事現場に匹敵するレベルで、会話が出来ないほどの騒音だ。

東京は地上も地下も曲がりくねっている

東京は地上を歩いていても道が微妙に曲がり、気づけば方角がずれていくような街だ。観光やビジネスで東京の街を歩いている時に、駅に向かっていたはずが、なぜかいつの間にか逆方向に歩いていたという、不可解な経験をした人は少なくないだろう。

古い街道と新しい道路が折り重なり、歴史の積み重ねがそのまま街の形に刻み込まれている。その複雑さは地下に潜るとさらに際立ち、地下鉄は既存の建物やインフラを避けながら、空いている隙間を縫うように走る。路線は地上に負けず劣らず曲がりくねり、真っすぐ進むことを許さない。

札幌のように計画的に作られた新しい都市では、道路も地下鉄も碁盤目状に整い、都市そのものが「まっすぐ進む」ことを前提にしている。東京はその対極にあり、どこか歪んだ都市のように映る瞬間がある。

そして、その歪みは単なる都市構造の問題にとどまらない。日本の事実上の首都がこれほどまでに曲がりくねり、まっすぐ進めない形をしていること自体が、どこか日本という国のあり方を象徴しているようにも思えてくる。

積み重ねた歴史を抱え込みながら、調整と妥協を繰り返し、気づけば本来の方向から少しずつずれていく。東京の街並みは、そんな日本という国の姿を静かに映し出しているかのようだ。