キャンプ

旅モノ

ソロキャンプは他者依存が発生した瞬間に成立しなくなる理由

画像はイメージ

ソロキャンプは自分一人だからこそ成立する。

最近はソロキャンプYouTuberが増え、チャンネル概要でソロを名乗る例も多いが、構造が伴わなければ本物のソロとは呼べない。

豪華な乗り物や高価なギアを使っていても、調味料を他人に借りた時点でソロキャンパーは名乗れなくなる。実態が自力でのキャンプでない以上、ソロキャンプとしての純度はゼロになる。

ソロは演出ではなく構造で決まる

ソロキャンプの本質は他者依存ゼロという一点に尽きる。

焚火の前で何を焼くかよりも、味付けを自分で完結できるかどうかが重要だ。徒歩や自転車のように荷物の物理限界が厳しい環境では、自分で持てないものは使えない。この制約がソロの純度を決める。

ソロキャンプYouTuberの中には、豪華なハーレーやジープでキャンプ地に乗り付ける者もいて、キャンプ中の画面だけソロ風に見せる演出になっている例もある。しかし、全体の構造が伴わなければ本物のソロとは言えない。

豪華な乗り物はソロの純度を上げない

ハーレーやジープは他者の視線を前提にした乗り物であり、孤独の象徴ではない。

徒歩や自転車と違って、重量のある荷物を大量に積めるため、ソロ特有の物理的制約が消える。荷物の制限が消えると、ギア選択の緊張感も消える。

豪華なギアを持ち込める環境は便利だが、本来的なソロの構造とは一致しない。ソロキャンプYouTuberがハーレーで登場する映像は画面映えするが、運搬力で補った時点で純粋なソロの構造から外れる。

調味料を借りた瞬間に構造が崩壊する

他者から醤油などの調味料を“ソロキャンプ”で借りるという行為は、味付けの段階でソロキャンプが成立していないことを決定づける。

味付けが他者依存になった瞬間に孤独は成立しない。焚火台の前で一人で座っていても、調味料を借りた時点で構造は複数人のキャンプになる。

豪華なハーレーで登場しても、最新ギアを並べても、味付けを自分で完結できないならソロではない。ソロキャンプYouTuberの中には、仲間と調味料を共有しながらソロを名乗る例もあるが、構造的には複数人のキャンプである。

ソロキャンプ風の映像はソロソロキャンプではない

焚火調理中の肩越しアングルなど複数方向からの撮影は、安全面と調理の確実性の観点から、通常は第三者が必要になる。

仲間の声が入る映像は複数人での行動を示すが、これらはすべてソロの構造と矛盾する。画面上で一人に見えても、実態が複数人ならソロではない。ソロキャンプYouTuberの中には、撮影者や仲間が同行しているにもかかわらず、ソロキャンプを名乗る例があるが、実態を見れば複数人であることは明らかだ。

自転車ツーリングで醤油を携帯していた場合の純度

自転車ツーリングは荷物の物理限界が厳しい環境であり、持てるものは限られる。

その中で俺が醤油のミニボトルを身に纏っていたという事実は、味付けを自分で完結させるための準備ができていたことを示す。調味料を自分で持つという行為は、ソロの構造を守るための最低条件になる。荷物の制限を理解し、その中で自給自足を成立させている点で純度は高い。

肉を焼いたがタレがなく仲間から醤油を借りた場合

肉を焼いたがタレがなく、たまたま仲間が持っていた醤油を借りた場合は、味付けの段階で他者依存が発生している。

自分で持っていないものを他者に補ってもらった時点でソロの構造は成立しない。焚火の前で一人に見えても、味付けが自分で完結していない以上、実態は複数人のキャンプになる。自転車ツーリングで醤油を携帯していた場合とは構造がまったく異なる。

ソロの純度は荷物と自給自足で決まる

ソロキャンプは荷物の物理限界と自給自足で成立する。

調味料を自分で持つこと。味付けを自分で完結すること。撮影を自分で行うこと。他者依存がゼロであること。

これらの条件が揃って初めて本物のソロになる。豪華な乗り物や高価なギアは純度を上げない。調味料を借りた時点で純度はゼロになる。ソロキャンプYouTuberの映像はキャンプ初心者の参考にはなるかもしれないが、画面の演出と構造を混同してはいけない。

コネタ

アジールが侵食される危機 -ソロキャンプが“映え文化”に呑み込まれつつある現在-

かつてキャンプとは、世の中から切り離された聖域だった。

ひとりで自然の中に身を置く時間には、特別な静けさがあった。そこでは世間の縛りや評価は存在せず、社会の文法も作用しない。食べ、眠るという単純な行為が、キャンプという聖域の中では、世間とは全く別の文脈を帯びていた。

私はその場所を、自分だけが出入りできる“小さな避難領域”のように認識している。言葉にするなら、それはアジールと呼ぶに相応しい領域だった。

静けさが演出へと変わるとき

近年、ソロキャンプYouTuberの台頭によって、この静かな領域は急速に変質し始めた。焚き火の音や森の沈黙は、視聴者に届けるための素材となり、質素な道具は“質素に見えるセット”へと変換される。

自然の中で過ごす時間は編集され、整えられ、演出として消費されるようになった。アジールでの行為そのものが、他者の視線を前提としたパフォーマンスへと変わるとき、外側の世界にあったはずの領域はその特性を失っていく。

アジールが産業として扱われる構造

ソロキャンプYouTuberの活動は、自然の中で過ごす時間そのものを産業へと変えてしまった。

企業とのタイアップや高額ギアの宣伝、テレビ番組化など、アジールは産業の一部として組み込まれている。自分と向き合うはずのアジールが、視聴者とスポンサーに向けたパフォーマンスへと変わり、静けさは演出に、孤独は商品に、質素さはブランドへと変換されていく。

アジール領域は、他者の期待に応える場所ではない。しかし、昨今のキャンプは、期待に応えることを前提にした行為へと変質しかかっている。

質素さを語りながら豪華な装備で固める矛盾

ソロキャンプYouTuberは「最低限の道具で自然と向き合う」と語るが、実際には高額なギアや外国製の大型バイク、企業提供の最新装備が揃っている。

質素さを語りながら、質素とは程遠い装備で固めるという矛盾は、自然との対話ではなく、見せるための装置としてのキャンプを露呈させる。アジール領域は、誰にも見せる必要がないからこそ成立する。しかし、映え文化と産業に取り込まれたキャンプは、見せることを前提にした行為へと変わり、アジールとしての性質を失っていく。

模倣が一般化すると外側領域は完全に消える

もともと“見られること”を本業にしていた人がやるならまだ理解できる。しかし、その形式が一般化すると、見せるためのキャンプ、サムネ映えのための焚き火、ギア紹介のための料理へと変わってしまう。

本来は自分のための行為であったキャンプが、他者へのサービスへと置き換わるとき、アジールは聖域としての特性を失う危険性がある。そこは他者の意思が入り込んだ瞬間に崩壊するfragileな場所であり、今のキャンプ文化はその境界を越えつつある危険性を感じる。

キャンプ系アニメの実態は“実在ギアの商品カタログ”

コロナ禍が後押しして流行ったキャンプ系アニメ、例えば『ゆるキャン△』は実在メーカーのギアをそのまま登場させることで、視聴者に“正解の装備”を提示する役割を担っている。

キャラクターが使うテントやストーブは、物語を引き立てる小道具というより、むしろキャラクターによる商品紹介という形で登場する。キャンプ好きの人間からは、高校生が使うには金額的に高すぎるという意見や、祖父から貰ったという設定のギアが流行り物すぎるという指摘もある。

メーカーはアニメ制作に協力し、実在ギアが自然と作品内で露出されるのだ。キャンプ未経験者や初心者は、それを推奨セットとして受け取り、キャンプ場には同じモデルのテントが並ぶ。アニメは物語であると同時に、メーカーにとって広告媒体として機能している。

この構造が進むほどに、キャンプは外側の領域ではなく、消費行動の延長としての空間へと変わっていく。こうしたキャンプアニメが悪いわけではないが、アニメが提示する“理想のキャンプ”がそのままテンプレートになり、アジールとしてのキャンプは静かに後退していくことになりかねない。

外側の領域が映え文化に呑み込まれる危機

私が感じているのは、単なる違和感ではない。それは、アジールが失われていく強烈な危機感だ。

アジールがコンテンツ化される。静けさが演出になり、孤独が商品になり、質素さが金銭になる。かつての外側領域は、“映える自然”という名の消費財に変わりつつある。世間から自由でいられたはずの場所が、世間を前提とした空間へと変わっていくとき、アジールとしての意味は失われていく危険がある。

外側の領域は守らなければ消える

アジールは、誰にも見られず、誰にも評価されず、誰にも説明しないという条件の上に成立する。

しかし昨今、キャンプはその条件を失いつつある。自然の中に逃げ込んでも、そこにはすでに世間が入り込んでいる。静けさが演出になり、孤独が商品になり、外側が外側でなくなる未来が、すぐそこまで迫っているのかもしれない。

旅モノ

キャンプにタープは不要だと思う、むしろタープのことを考えたことが1ミリもない俺の持論

キャンパーの間では「必要派」と「不要派」で真っ二つに分かれるアイテムがタープである。

あのテントを覆うように建てる二段式の布みたいなやつ。雨とか日差しを防ぐ効果などがあるらしい。

俺に至っては過酷で待ったなしの自転車ツーリング時代も含めて、一切タープのことを考えたことすらなかったが、メリットよりデメリットの方が圧倒的に上回るのではないかと思い、過去も現在も未来もタープを使う予定はない。

俺が考えるタープのメリット

これは想像力だけの世界だが、日差しや雨を防ぐ一定の効果があるように思う。

食事をするスペースを確保したり、領域を確保する意味合いもあるのかもしれない。

俺が考えるタープのデメリット

デメリットは沢山うかぶ。

荷物が増える

自転車ツーリングや徒歩キャンプでは荷物は少なければ少ないほど良いので、不要なものはできる限り省略した方が快適である。

俺に至っては銀マットの類すら使ったことがないくらいで、タープなんて考えたことすらない。

設営や撤収に手間がかかる

テントだけでも手際よくやってもヒモを引っ張ったりするのも含めて、寝袋とか内部のインテリアまで含めると、最低30分くらいは設営や撤収にかかるわけで、そこにタープという得体の知れないものが加わる手間は避けられるなら避けたいものだ。

日よけ効果は場所を考えれば済む

そもそも木陰になる場所を選んだりすれば済む。

砂漠や荒野のど真ん中なら仕方ないが、日本みたいな山がちな国においては、木陰があるキャンプ場はいくらでもあるはずだ。

俺の地元の田舎町なんて、道の駅に売っていた標識のマグネットみたいなやつの町の紹介文が「町の面積は広いがほとんどの部分が山」って書かれていて、実際そうだとしてもムカついたわ(笑)

強風が吹いたら危なそう

地面近くに張っているテントだって強風が吹いたら危険なわけで、上空に設置しているタープは何倍も強風に弱いと思う。

雨風もない穏やかな日だったら問題ないとしても、そんな穏やかな日だったらタープも必要ない気がする。